甲陽軍鑑 / 品第四十八
猶彌兵衞申は御奉行衆きこしめせ、むかしのなぞらへを軍にはなされよ、義經の出頭人武藏坊辨慶は堀川夜討の時棒にていくら人を討殺すとある、此下にては頸の一ッ二ツばかりはさたも有間敷事なれ共、伊勢の三郞義盛が頸二ツ取たるを唯樊噲もかくやらんとほめ給ふ、しかも義經なれば無案内のほめ樣にても有まじき時は、かた〳〵頸數多くとも、此彌兵衞がすくなく共、おとると有は僻事也といへば、廣瀨·みしな兩人は彌兵衛をのれが口には取あふまじと申て物いはず、公事は辻彌兵衞申勝、
新字:猶弥兵衛申は御奉行衆きこしめせ、むかしのなぞらへを軍にはなされよ、義経の出頭人武蔵坊弁慶は堀川夜討の時棒にていくら人を討殺すとある、此下にては頸の一ッ二ツばかりはさたも有間敷事なれ共、伊勢の三郎義盛が頸二ツ取たるを唯樊噲もかくやらんとほめ給ふ、しかも義経なれば無案内のほめ様にても有まじき時は、かた〳〵頸数多くとも、此弥兵衛がすくなく共、おとると有は僻事也といへば、広瀨·みしな両人は弥兵衛をのれが口には取あふまじと申て物いはず、公事は辻弥兵衛申勝、
書き下し
猶弥兵衛申は御奉行衆きこしめせ、むかしのなぞらへを軍にはなされよ、義経の出頭人武蔵坊弁慶は堀川夜討の時棒にていくら人を討殺すとある、此下にては頸の一ッ二ツばかりはさたも有間敷事なれ共、伊勢の三郎義盛が頸二ツ取たるを唯樊噲もかくやらんとほめ給ふ、しかも義経なれば無案内のほめ様にても有まじき時は、かた〳〵頸数多くとも、此弥兵衛がすくなく共、おとると有は僻事也といへば、広瀨·みしな両人は弥兵衛をのれが口には取あふまじと申て物いはず、公事は辻弥兵衛申勝、
現代語訳
なお弥兵衛が申すは、御奉行衆、聞こし召せ。昔のなぞらえを軍にはなされよ。義経の出頭人、武蔵坊弁慶は堀川夜討ちの時、棒にていくら人を討ち殺すとある。この下にては首の一つ二つばかりは沙汰もあるまじき事であるけれども、伊勢の三郎義盛が首を二つ取りたるを、ただ樊噲もかくやらんと褒め給う。しかも義経であれば不案内の褒めようにてもあるまじき時は、方々が首数が多くとも、この弥兵衛が少なくとも、劣るとあるは僻事であると言えば、広瀬・三品の両人は、弥兵衛はおのれが口には取り合うまじと申して物言わず。公事は辻弥兵衛が申し勝つ。
解説
この章句が説くこと
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『甲陽軍鑑』品第四十其ほむる町人又伊勢三郎義盛が偽りて土佐が中間に義経公討手の隠密をとひおとしたる儀を正尊贔負の族沙汰す、義盛は比興のうそつきかなとそしる事、是町人のせんさくにて、武士のことわざに聊もなき事也、若し又侍の批判にさやうなるは、弱将の下にて臆病侍のせんさくならん、と三枝に内藤が心をつけてをしゆるなり、
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『甲陽軍鑑』品第四十八みしな申は、それは又我等広瀨度々手抦をあらはしたる故なりと申す、辻弥兵衛申すは、手抦も人にこされたるは深き儀にては有まじといへば、みしな申すは、広瀨·我等こしたる人はあまり覚へずといふ、辻弥兵衛申すは、旁はさすがのうでぬきをさする衆が武辺の儀に首尾不合なりといへば、みしな申すは、なにか口の違たる事ありやといへば、辻弥兵衛申すは、さいはいを手にかくる人より上の武士有間敷といひながら、今年さいをゆるされ申候て其以前三十年の間人にすぐれたると云ふは、さて首尾不合にてはなきと申て辻弥兵衛大きに笑へば、みしな一口もあかず、
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『甲陽軍鑑』品第四十一内藤修理正いはく昔し頼朝公譜代衆土佐正尊と申す侍、舎弟義経公の討手に都へのほる、忍びて罷在るを義経の近習に伊勢三郎義盛賢きはかりごとを以て方便て是をとひをとして我君に申す、義経聞召し、いそぎ正尊を召し寄せ旣に誅罰なさるゝ処に、正尊君の為にいつはつて起請を書く故のがれがたき所をゆるされ申、此儀を贔負の町人正尊のはかりごと浅からずとほむる、
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『甲陽軍鑑』品第四十八さて弥兵衛が二番目の弟甚内にも五貫の御加恩、是は一条殿の衆なり、三番目辻弥惣にも五貫の御加恩是は又土屋右衛門尉衆なり、辻弥兵衛が威光をもつて弟の甚内·弥惣までに增知行これ有、但し甚内兄の弥兵衛に結句ましのおぼへ有、さて又みしな·広瀨をば御旗屋へ召よせられ、しかも本のさいはいゆるし下さるゝ、あさからぬ冥加のおほへ者也とほめざる人はなかりける、
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『甲陽軍鑑』品第四十八かた〳〵の我等罷出ざる以前の武辺は、それがし父の六郎兵衛、ほそ心操をもつて次あひに仕候、左候は十三年以降はわかく候へども各より、ちと我等仕りかさみ申候、其上広瀨殿頸沢山に御取候よし、それは尤も大剛の人なり、さりながら我等の五ツ取候しるしも、ざいこそ手にかけず共、かねまつ黒に付て匂ひ芬々ととめたる頸にて候へば、かた〳〵の討たる者にはます共おとり申まじ、さいはい手にかけたる人よりも結句ましの者にても候べしと申せば、
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『甲陽軍鑑』品第四十八御主殿に於て広瀨郷左衛門·みしな肥前両人、一方は又辻弥兵衛左右方の申分あり、先広瀨·みしな申す、公事は何様の者共仕べく候へども、武辺·公事の儀はあひ手によりての儀にて御座候、彼弥兵衛永禄四年川中島合戦初陣にて当年まで十三ヶ年ならで陣は仕候はず候、其上未だ年も二十九歳、武辺の御證文とても二三の儀なり、