甲陽軍鑑 / 品第四十
又關東發向に四十二日の間數ヶ所の要害へ取よせ一度もけがなく、しかも蓮池までせめ入、小田原放火の歸陣に、みませ合戰勝利の事、輝虎一代一のおぼへ十四歲にて二千の人數をもつて七千の敵に、しかも我下知にて勝利を得る、小田原蓮池へせめ入、信玄公のごとく放火はなけれ共、謙信公は信玄公より十年まへなる故まづ手がらなり、
新字:又関東発向に四十二日の間数ヶ所の要害へ取よせ一度もけがなく、しかも蓮池までせめ入、小田原放火の帰陣に、みませ合戦勝利の事、輝虎一代一のおぼへ十四歳にて二千の人数をもつて七千の敵に、しかも我下知にて勝利を得る、小田原蓮池へせめ入、信玄公のごとく放火はなけれ共、謙信公は信玄公より十年まへなる故まづ手がらなり、
書き下し
又関東発向に四十二日の間数ヶ所の要害へ取よせ一度もけがなく、しかも蓮池までせめ入、小田原放火の帰陣に、みませ合戦勝利の事、輝虎一代一のおぼへ十四歳にて二千の人数をもつて七千の敵に、しかも我下知にて勝利を得る、小田原蓮池へせめ入、信玄公のごとく放火はなけれ共、謙信公は信玄公より十年まへなる故まづ手がらなり、
現代語訳
また関東発向に四十二日のあいだ数か所の要害へ取り寄せ、一度も怪我がなく、しかも蓮池まで攻め入り、小田原に放火して帰陣に、みませ合戦に勝利の事。輝虎一代の第一の覚えは、十四歳で二千の人数をもって七千の敵に、しかも我が下知で勝利を得る。小田原の蓮池へ攻め入り、信玄公のように放火はないけれども、謙信公は信玄公より十年前であるゆえに、まず手柄である。
解説
信玄と謙信の一代の第一の手柄が並べて記される。信玄は四十二日の関東発向で一度も怪我なく蓮池まで攻め入り、謙信は十四歳で二千で七千に勝った。同じ蓮池でも謙信のほうが十年早かったので、そこは相手のほうが上だと認めている。同じ蓮池でも謙信のほうが十年早かったので、そこは相手のほうが上だと認めている。敵の記録を、自分より上として書き残している。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
覚え関東発向蓮池謙信信玄先手
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