甲陽軍鑑 / 品第三十九
信玄望みは、天下に旗をたつべきとの儀なれども、かやうに死する上は結句天下へのぼり仕置仕殘し、汎々成時分に相果たるより只今しミて信玄存命ならば、都へのほり申べきものをと諸人批判は大慶也、就中弓箭の事、信長·家康果報のつよき者共と取合をはじめ候故、信玄一入はやく命縮と覺たり、
新字:信玄望みは、天下に旗をたつべきとの儀なれども、かやうに死する上は結句天下へのぼり仕置仕残し、汎々成時分に相果たるより只今しミて信玄存命ならば、都へのほり申べきものをと諸人批判は大慶也、就中弓箭の事、信長·家康果報のつよき者共と取合をはじめ候故、信玄一入はやく命縮と覚たり、
書き下し
信玄望みは、天下に旗をたつべきとの儀なれども、かやうに死する上は結句天下へのぼり仕置仕残し、汎々成時分に相果たるより只今しミて信玄存命ならば、都へのほり申べきものをと諸人批判は大慶也、就中弓箭の事、信長·家康果報のつよき者共と取合をはじめ候故、信玄一入はやく命縮と覚たり、
現代語訳
信玄の望みは、天下に旗を立てようということであったけれども、このように死ぬ上は、かえって天下へ上って仕置きをやり残し、ぼんやりとした時分に果てるよりも、今死んで、信玄が存命であったなら都へ上ったであろうにと諸人が評判するほうが、大きな慶びである。とりわけ弓矢のことは、信長・家康という果報の強い者どもと争いを始めたゆえに、信玄はひとしお早く命が縮んだと覚えている。
解説
天下を取れずに死ぬことを、惜しいと言わずに慶びだと言い換えている。中途半端に上洛して仕置きを残したまま老いるより、上っていたはずだと人に言われて終わるほうがよい、という考え方。そのうえで自分の死因を、強い相手と早く争い始めたことに求める。残された時間の短さを、悔いではなく評価の言葉に置き換えている。人にどう言われて終わるかを、自分で選んだことになる。
この章句が説くこと
天下望評判死信玄果報
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『甲陽軍鑑』品第三十九其子細は縦へをとるに矢勢盛には射ぬく者也、矢勢過る時分には浅く立、矢勢過ては己と落る、其ごとく人の果報も久しく無之候、果報の過時分をまたずして盛に取合を始め、天道よりおしおとさるゝ也、信玄が信長·家康と武篇対々ならば、是程早く命は縮るまじけれ共、弓矢には信長·家康両人懸りても信玄には更になり難き故、天道果報をひきし給へば、天より信玄をころし給ふ、其印には輝虎三年の間に病死仕るべく候、
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『甲陽軍鑑』品第三十九今信玄取て渡したる国々あぶなげもなきように仕置をつこしみ候所に、各より無理成働き仕候はゞ、持の内へ入たて有無の一戦可仕候、其時は我つかひ入たる大身·小身·下々迄一精出し候はゞ、信長·家康·氏政三人ひとつになりても此方勝利はうたがひ有まじく候、輝虎みなとひとつになり四郎にこめをみする事有間数候、信玄死してより弓矢は謙信也、天下をもちたる信長果報のすへ輝虎が武勇両人のすへをまちうけ申べく候、信玄よろづ工夫·思案·遠慮十双倍気遣い致し候へと被仰、
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『甲陽軍鑑』品第四十四年以前に他界まします信玄、今迄御在世に付ては天下の仕置なさるゝ事なにうたがひあらんや、子細は伊勢·越前·河内·和泉·四国其外紀伊国·大和国小身なる者共まで信玄公へ申通し、法性院殿都入を相待とある事なり、さありて三河の家康をさへおしつぶせば、信長大身にてもそれはあまり手間とらぬ事、
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『甲陽軍鑑』品第三十九信玄次には輝虎より外信長をふみつくる者有間敷候と被仰次に勝頼弓矢の取様輝虎と無事を仕り候へ、謙信はたけき武士なれば、四郎わかき者にこめみする事有間敷候、其上申合せてより頼むとさへいへば首尾違ふ間敷候、信玄おとなげなく輝虎を頼と云ふ事申さず候故、終に無事に成事なし、必勝頼謙信を執して頼と申べく候、さように申、くるしからざる謙信也、