甲陽軍鑑 / 品第四十
以上此折柄山縣三郞兵衛土屋に語りて言く、侍が武士道のさたに大身·小身のうはさ申時、詞大方定まりたり、先第一に國持をば弓矢取と申、第二に一郡·一城斗りの侍大將をば武篇者と申、第三に小身なる人をば兵と申、さる程に國持度々合戰に勝、數ケ所城をせめとり、覇ありて文をたしなみ、能人をみしる大將を文·武二道の弓取とほめて名大將と申者也、
新字:以上此折柄山県三郎兵衛土屋に語りて言く、侍が武士道のさたに大身·小身のうはさ申時、詞大方定まりたり、先第一に国持をば弓矢取と申、第二に一郡·一城斗りの侍大将をば武篇者と申、第三に小身なる人をば兵と申、さる程に国持度々合戦に勝、数ケ所城をせめとり、覇ありて文をたしなみ、能人をみしる大将を文·武二道の弓取とほめて名大将と申者也、
書き下し
以上此折柄山県三郎兵衛土屋に語りて言く、侍が武士道のさたに大身·小身のうはさ申時、詞大方定まりたり、先第一に国持をば弓矢取と申、第二に一郡·一城斗りの侍大将をば武篇者と申、第三に小身なる人をば兵と申、さる程に国持度々合戦に勝、数ケ所城をせめとり、覇ありて文をたしなみ、能人をみしる大将を文·武二道の弓取とほめて名大将と申者也、
現代語訳
この折柄、山県三郎兵衛が土屋に語って言う。侍が武士道の沙汰に大身・小身の噂を申す時、言葉はおおかた定まっている。まず第一に国持ちを弓矢取と申す。第二に一郡・一城ばかりの侍大将を武篇者と申す。第三に小身なる人を兵と申す。さるほどに、国持ちがたびたびの合戦に勝ち、数か所の城を攻め取り、覇があって文を嗜み、よく人を見知る大将を、文武二道の弓取と褒めて名大将と申すものである。
解説
人を呼ぶ言葉が、今度は身代の大きさで分けられる。国持ちは弓矢取、一郡一城は武篇者、小身は兵。そのうえで、その最上級である名大将の条件が四つ挙げられる。勝つこと、城を取ること、文を嗜むこと、そして人を見知ること。呼び名が身代の大きさで分けられ、その最上級である名大将の条件が四つ挙げられる。勝つこと、城を取ること、文を嗜むこと、人を見知ること。
この章句が説くこと
弓矢取武篇者兵名大将文武二道言葉
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