甲陽軍鑑 / 品第四十二
さるに付信玄公軍陣の役者におぼへなき人はあるまじきなり如件鑓奉行一信玄公十六歲より五十三迄の間に軍法工夫仕たる衆一荻原常陸守是は譜代衆也相圖の小旗·相圖の物見·がくのどう一原加賀守同方向の陣取一原美濃守足輕りうごのり、二のかけ備たこむ事一橫田備中備組結ぶ事一多田淡路夜軍あつくうつて、うすく出る事、ひかへ時までいつさくなり一加藤駿河信玄公の弓矢の指南申たる武士なり一小幡山城樓西櫓に數の刻、敵の城へ取懸たる時出る出ざるを見合す事、敵の働き樣にて味方にあやうき事見合儀一山本勘介城取或は敵をまはす事一米倉丹後守甲州人衆也城をせむるに竹たばの事一馬塲美濃守同押太皷の九字を表する也、
新字:さるに付信玄公軍陣の役者におぼへなき人はあるまじきなり如件鑓奉行一信玄公十六歳より五十三迄の間に軍法工夫仕たる衆一荻原常陸守是は譜代衆也相図の小旗·相図の物見·がくのどう一原加賀守同方向の陣取一原美濃守足軽りうごのり、二のかけ備たこむ事一横田備中備組結ぶ事一多田淡路夜軍あつくうつて、うすく出る事、ひかへ時までいつさくなり一加藤駿河信玄公の弓矢の指南申たる武士なり一小幡山城楼西櫓に数の刻、敵の城へ取懸たる時出る出ざるを見合す事、敵の働き様にて味方にあやうき事見合儀一山本勘介城取或は敵をまはす事一米倉丹後守甲州人衆也城をせむるに竹たばの事一馬塲美濃守同押太鼓の九字を表する也、
書き下し
さるに付信玄公軍陣の役者におぼへなき人はあるまじきなり如件鑓奉行一信玄公十六歳より五十三迄の間に軍法工夫仕たる衆一荻原常陸守是は譜代衆也相図の小旗·相図の物見·がくのどう一原加賀守同方向の陣取一原美濃守足軽りうごのり、二のかけ備たこむ事一横田備中備組結ぶ事一多田淡路夜軍あつくうつて、うすく出る事、ひかへ時までいつさくなり一加藤駿河信玄公の弓矢の指南申たる武士なり一小幡山城楼西櫓に数の刻、敵の城へ取懸たる時出る出ざるを見合す事、敵の働き様にて味方にあやうき事見合儀一山本勘介城取或は敵をまはす事一米倉丹後守甲州人衆也城をせむるに竹たばの事一馬塲美濃守同押太鼓の九字を表する也、
現代語訳
さるにつき、信玄公の軍陣の役者に覚えなき人はあるまじきなり。この件のごとし。鑓奉行。一、信玄公が十六歳より五十三までの間に軍法を工夫仕った衆。一、荻原常陸守、これは譜代衆なり。合図の小旗・合図の物見・額の胴。一、原加賀守、同じく方向の陣取り。一、原美濃守、足軽の竜五乗り、二の懸け、備えを畳む事。一、横田備中、備えの組み結ぶ事。一、多田淡路、夜軍は厚く討って薄く出る事、控え時までいっさくなり。一、加藤駿河、信玄公の弓矢の指南を申した武士なり。一、小幡山城、楼の西櫓に数の刻み、敵の城へ取り掛かった時に出るか出ないかを見合わす事、敵の働き様で味方に危うい事を見合わす儀。一、山本勘介、城取りあるいは敵を回す事。一、米倉丹後守、甲州人衆なり、城を攻めるに竹束の事。
解説
この章句が説くこと
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『甲陽軍鑑』品第四十二将棋頭人数立の事一高坂弾正篝ひきやくの事備へみの手なりの事七一旗本大陣取は原隼人あひてに被成信玄公御工夫なり、同五人組にして三万千五百と組あはせなさるゝ、縦へば卅七万五千迄もなるべき也、又大軍·小軍·大旗是れは馬塲美濃御挨拶人にて、是れも信玄公御工夫なり、此外も信玄公御工夫多けれ共、みな家老衆の分別とある上意は、
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『甲陽軍鑑』品第四十三此外七人一荻原常陸守信虎公御幼少の時弓矢の指南申し、信玄公御幼稚の時分も弓矢の物語り申上られ候、信玄公十二三の御時分常陸守七十余にて死去也〇一板垣信形一甘利備前守一飯富兵部一原加賀守甲州たか畠の人也、子息隼人佐に常々申しおしゆるは、侍たらん者は何にても弓矢の儀に一やう得物有様にとおしへおかるゝなり○一諸角豊後一日向大和守一小宮山丹後守○足軽衆には一横田備中守一代之内、
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『甲陽軍鑑』品第四十扨又いやしくも信玄公分別·才覚のまねをもつて、工夫·思案して唐国諸葛孔明陣をとりしき、備へまふけ城をかまへらるゝ儀尋て是をならひ、陣取を大小二にして其外人数備·三ツのかまへ·かずのはたらきやうを仕り、我子孫計りにあらず誰人なりと云共、於義義国の中において敷発の聚金物、車多そらにがひるるためせる玄が軍法如此と宣ふ也、扨又軍法の儀は別に一巻有之、
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『甲陽軍鑑』品第四十三先如此外題をもつて書おかねば其様子聞へかね候間如件一信玄公於御陣手抦をなす者に褒美なさるゝその色々は一御證文上中下有一のし付の刀·脇指一鑓·長刀一のどわ一小袖一羽織一基石金一づきんまで、長持に一ッ持たせ給ふなり、功により又は時のしほにより是を下さるゝ事御使にて給はり、又は家老衆をもつて給り、或は二十人衆の頭·御中間頭衆をもつても給る、さて又御前へめしよせられ給るもあり其様子あり○信玄公軍法之事、
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『甲陽軍鑑』品第四十大将には能々出頭人なり共、傍輩に物云ふやうにならねば殊に一ツ二ツにて、はやえつうあそばす事は国持の専ら也、一入信玄公十八歳よりそれがし廿五歳の時より奉公申奉るに、御わかき時分せんさくなされ、此儀をよそのやうに語給ひて定めらるゝ、今、曽根内匠·真田喜兵衛·三枝勘解由左衛門三人にケ様の定めを仰せきかされてこそ牢人衆の参るに右三人、先其侍を見とどけ、それ〳〵に披露いたすと大方みへまいらせ候と穴山殿に馬塲美濃守をしへまいらするなり、
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『甲陽軍鑑』品第四十二明けくれ雑談を聞給ふ故なりと馬塲美濃高坂弾正に語る也信玄公軍法之御挨拶人一馬塲美濃軍の被成様申上る一山県三郎兵衛御働きなされてよきとすゝめ申上る一内藤修理何方へ御働きと指図申上る、其様子は北条家をかすめ給ふにも、伊豆か相摸か、はちかたか、関東にては新出·足利か、家康にては遠州か三河か信長東美濃か、扨は越後かと様子を積りて内藤申上る一高坂弾正者二ツなく敵国へふかく働き或は御一戦必ず御延引と計り申上、能く隠密するにより働きまへにしれず、但し侍大将衆は存候なり一文のいる事には小山田弥三郎をめして、七書·五経の古語をいはせて聞給ふ一何国先方衆にも疑ひ有るなしの御用心の事は土屋右衛門尉·三枝勘解由左衛門·真田喜兵衛·曽根内匠申上るに少しも私しなし一陣取、或は他国にて陣塲をみたつる事原隼人佐次第に被成候也一他国より御客来の挨拶、又は状文の取引は跡部大炊介·長坂長閑是の両人なり、