甲陽軍鑑 / 品第四十
信長尾張一國ならば互に尾張·三河にてみかたとばかり申すべく候へ共、信長國數をとり大身に成に付、家康は一國にて無事なれば、一國の方をはたしたと云ふ、かやうの事も生れ替りの家にてはわかき衆其たてわけをしらねば、武士道無案内のやうに候と小宮山內膳·小山田彥三郞兩人に、もろが入道がゝへたるを高坂彈正聞き候て、くどけれども紙面にあらはし、わかき衆にせんさくよくなされよとの儀なり、
新字:信長尾張一国ならば互に尾張·三河にてみかたとばかり申すべく候へ共、信長国数をとり大身に成に付、家康は一国にて無事なれば、一国の方をはたしたと云ふ、かやうの事も生れ替りの家にてはわかき衆其たてわけをしらねば、武士道無案内のやうに候と小宮山内膳·小山田彥三郎両人に、もろが入道がゝへたるを高坂弾正聞き候て、くどけれども紙面にあらはし、わかき衆にせんさくよくなされよとの儀なり、
書き下し
信長尾張一国ならば互に尾張·三河にてみかたとばかり申すべく候へ共、信長国数をとり大身に成に付、家康は一国にて無事なれば、一国の方をはたしたと云ふ、かやうの事も生れ替りの家にてはわかき衆其たてわけをしらねば、武士道無案内のやうに候と小宮山内膳·小山田彥三郎両人に、もろが入道がゝへたるを高坂弾正聞き候て、くどけれども紙面にあらはし、わかき衆にせんさくよくなされよとの儀なり、
現代語訳
信長が尾張一国であるならば、互いに尾張・三河にて味方とばかり申すべく候えども、信長が国数を取り大身になるにつき、家康は一国で無事であれば、一国のほうを旗下と言う。このような事も、生まれ替わりの家では若い衆がその立て分けを知らなければ、武士道に不案内のようでございますと、小宮山内膳・小山田彦三郎の両人に室が入道が答えたのを、高坂弾正が聞き候って、くどいけれども紙面に表し、若い衆に詮索をよくなされよとの儀である。
解説
同盟の呼び名は、二人の間柄ではなく国の数で決まる。尾張一国のうちは互いに味方だが、信長が国を増やせば家康のほうが旗下になる。関係は変えていないのに名が変わるという話で、若い者はこの立て分けを知らないから書き残すのだと結ばれる。関係は変えていないのに名が変わるという話で、若い者はこの立て分けを知らないから書き残すのだと結ばれる。呼び名は国の数で決まる。
この章句が説くこと
味方旗下国数立て分け信長家康
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