甲陽軍鑑 / 品第四十
頓て又三年の間に氏康公·氏政公·信玄公三大將を相手にして輝虎は一大將なれ共、松山落城をきこしりぞかず、しかもきさいの城を攻おとし、城王は忍の成田がおとうと小田の助三郎といふ者をはじめ、雜兵三千なでぎりにいたされのがるゝ事、信長は二十七歲の時八百の人數にて二萬の大敵義元公にかち、其後公方樣御供申、天下へ仕すへまいらせ、三年の間公方を守護し奉り其以後都支配の事、いづれも此外自余の大將衆おぼへに成程の事はいかほども御座あれ共それは際限なし、
新字:頓て又三年の間に氏康公·氏政公·信玄公三大将を相手にして輝虎は一大将なれ共、松山落城をきこしりぞかず、しかもきさいの城を攻おとし、城王は忍の成田がおとうと小田の助三郎といふ者をはじめ、雑兵三千なでぎりにいたされのがるゝ事、信長は二十七歳の時八百の人数にて二万の大敵義元公にかち、其後公方様御供申、天下へ仕すへまいらせ、三年の間公方を守護し奉り其以後都支配の事、いづれも此外自余の大将衆おぼへに成程の事はいかほども御座あれ共それは際限なし、
書き下し
頓て又三年の間に氏康公·氏政公·信玄公三大将を相手にして輝虎は一大将なれ共、松山落城をきこしりぞかず、しかもきさいの城を攻おとし、城王は忍の成田がおとうと小田の助三郎といふ者をはじめ、雑兵三千なでぎりにいたされのがるゝ事、信長は二十七歳の時八百の人数にて二万の大敵義元公にかち、其後公方様御供申、天下へ仕すへまいらせ、三年の間公方を守護し奉り其以後都支配の事、いづれも此外自余の大将衆おぼへに成程の事はいかほども御座あれ共それは際限なし、
現代語訳
やがてまた三年のあいだに、氏康公・氏政公・信玄公の三大将を相手にして、輝虎は一大将であるけれども、松山の落城を聞いても退かず、しかも騎西の城を攻め落とし、城主は忍の成田の弟である小田の助三郎という者をはじめ、雑兵三千を撫で斬りにいたし、逃れる事。信長は二十七歳の時、八百の人数で二万の大敵である義元公に勝ち、その後、公方様のお供を申して天下へ据え参らせ、三年のあいだ公方を守護し奉り、その以後は都の支配の事。いずれもこのほか、他の大将衆で覚えになるほどの事はいくらでもございますが、それは際限がない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『甲陽軍鑑』品第三十九扨信長·家康は互にあなたをすけ、こなたをすけ、利運に互に仕り、すでにもつて信長はまきたる城をまきほぐし、味方を捨、退口あらき事数度あり、然も一向坊主などを敵にして、家康なくば成間敷候、本より家康は少身なる若気也、又奥両国にも輝虎ほどなる大将なし、四国·九国にも毛利元就程なるはなし、日本国中に右の大将衆程の誉れの侍、今は大唐にもなきと聞ゆる、然所に信玄手がらは若き時分より他国の大将をたのみ馬を出させ、両旗をもつて弓矢を取たる事一度もなし、まきたる城をまきほぐしたる事一度もなし、味方の城を一ツと敵に取しかれたる事なし、甲州のうちに城墎をかまへ用心する事もなく、屋敷がまへにて罷在、
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『甲陽軍鑑』品第四十信長国へだち信玄輝虎と終に武篇の参会無之、就中唯今は信長の嫡子城之介殿信玄公御婿にとある縁辺なり、さるに付信長手だてなさるべき敵さのみなし、十二年以前今川義元公と合戦の刻、信長二十七歳にて無類の手抦是なり、其比信長少身にて若ければ、大敵には種々謀ごとありて信長勝利を得給ふなり、謀行の軍法なき弓矢は縦へば下手のあつまりてする能見物のごとし、仕そこなはんと思ひ、見ながらあぶなく候、信長の弓矢も美濃の国と七年の間取合て武功の分別定まるなり、
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『甲陽軍鑑』品第四十又関東発向に四十二日の間数ヶ所の要害へ取よせ一度もけがなく、しかも蓮池までせめ入、小田原放火の帰陣に、みませ合戦勝利の事、輝虎一代一のおぼへ十四歳にて二千の人数をもつて七千の敵に、しかも我下知にて勝利を得る、小田原蓮池へせめ入、信玄公のごとく放火はなけれ共、謙信公は信玄公より十年まへなる故まづ手がらなり、
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『甲陽軍鑑』品第十四又尾州織田信長は日本にて、上杉管領入道輝虎につゞきては、織田右大臣信長とて信玄公他界まし〳〵て後は、両大将を弓矢の花の本に申す中にも、信長は六年己来都の異見なれば、武辺のつよみなる塲数は、輝虎といへども結句信長と名をよぶ者多し、此信長をも下郎の歌に作りうたふ、一に憂事金ヶ崎、二にはうきこと志賀の陣、三に福島野田ののき、口〓〓と、
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『甲陽軍鑑』品第六義元運の末にや是を実なりとおほして、彼新左衛門をめすに駿府までまいるに及ばずとて、参州吉田において速に頭をぞはねられける、其四年にあたつて庚申しかも七庚申ある歳の五月信長廿七の御年人数七百斗り、義元公人数二万余りを卒して出給ふ、于時駿河勢所々へ乱坊に散たる隙をうかどひ、味方の真似をして駿河勢に入交る、義元は三河の国の僧と路次のかたはらの松原にて酒盛しておはします所へ、信長伐てかゝり終に義元の頸を取給ふ、此一戦の手柄によつて於日本其名を得給ふ、是とても件の戸部新左衛門存命においては中々可為難儀処に信長公智謀深く陳平張良が項王の使者をはかりしに不異、信長公消息の行は廿四歳の御時也、
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『甲陽軍鑑』品第四十是れは小身なる侍の事、大身の上には一のおほへ大合戦こぜりあひ、二のおぼへ城せめ、第一には人をよく見知、国の仕置見る事になさるゝ事、是は又国半国とも、もつ大将の御手抦是なり、然る間右の家康は十二年以前に十九歳にて尾州大高の覚へ、三河国一の宮の後詰、同かんだいじの合戦、吉良にての合戦、山中の平ぜめ信長すけ、江州あね川合戦偏へに家康武功故信長の勝利と云ふ、同若狭の国にて信長にすてられたる時の家康はたらき、遠州懸川にて今川氏真をせめて氏真に降参させ申事、其外三河国において七年に大方七度の合戦有りと聞く、