甲陽軍鑑 / 品第十三
是れを誰そと申に關東の管領上杉義繩公の嫡子則政公にてとゝめたり、先つ此上杉殿由來を委しく糺せば事長し、畧して荒々爰に記す、抑も源賴朝公代々の公方、末には絕へて北條家久しく天下を持つといへども、後代の相摸入道高時惡逆無道の故、足利治部太輔尊氏公·新田義貞公·兩源君として相摸入道を亡し、其後尊氏·義貞取りあひ有り、さて義貞公武勇の譽れ誠に日本國始まりてさのみおほくまします事なしと、上下ともにさた仕つる名人なり、如此大將なれども果報すくなうして亡び失せ給ふ、是れによつて尊氏公天下を取りて靜謐に治め、就中源家專らの世となる、
新字:是れを誰そと申に関東の管領上杉義縄公の嫡子則政公にてとゝめたり、先つ此上杉殿由来を委しく糺せば事長し、略して荒々爰に記す、抑も源頼朝公代々の公方、末には絶へて北条家久しく天下を持つといへども、後代の相摸入道高時悪逆無道の故、足利治部太輔尊氏公·新田義貞公·両源君として相摸入道を亡し、其後尊氏·義貞取りあひ有り、さて義貞公武勇の誉れ誠に日本国始まりてさのみおほくまします事なしと、上下ともにさた仕つる名人なり、如此大将なれども果報すくなうして亡び失せ給ふ、是れによつて尊氏公天下を取りて静謐に治め、就中源家専らの世となる、
書き下し
是れを誰そと申に関東の管領上杉義縄公の嫡子則政公にてとゝめたり、先つ此上杉殿由来を委しく糺せば事長し、略して荒々爰に記す、抑も源頼朝公代々の公方、末には絶へて北条家久しく天下を持つといへども、後代の相摸入道高時悪逆無道の故、足利治部太輔尊氏公·新田義貞公·両源君として相摸入道を亡し、其後尊氏·義貞取りあひ有り、さて義貞公武勇の誉れ誠に日本国始まりてさのみおほくまします事なしと、上下ともにさた仕つる名人なり、如此大将なれども果報すくなうして亡び失せ給ふ、是れによつて尊氏公天下を取りて静謐に治め、就中源家専らの世となる、
現代語訳
それを誰かと申せば、関東の管領上杉義綱公の嫡子、則政公にとどめを刺す。まずこの上杉殿の由来を詳しく糺せば話が長い。略して荒々ここに記す。そもそも源頼朝公から代々の公方は、末には絶えて、北条家が久しく天下を持ったけれども、後代の相模入道高時が悪逆無道であったゆえに、足利治部大輔尊氏公・新田義貞公の両源君として相模入道を滅ぼした。その後、尊氏と義貞のあいだに争いがあった。さて義貞公の武勇の誉れは、まことに日本国が始まってよりそれほど多くはおられないと、上下ともに沙汰する名人である。このような大将であっても、果報が少なくて滅び失せられた。それによって尊氏公が天下を取り、静かに治められ、とりわけ源家専らの世となった。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
『甲陽軍鑑』品第十三しかも右大将より以後公方家代々の式法を取り立て、まつりごとを能く行い給ふこと、中興に尊氏公よりあそばす、いかにも事を全く仕置きをし給へば、両公方と定めらるゝこの儀尤なり、旣に都の公方に義詮公御下に武衛·細川·畠山是れ三管領なり、一式·山名·京極·赤松·是れ又四職なり、扨て鎌倉の公方に持氏公をしすへ参らせられ、御下に両上杉もとは藤原内大臣冬次の子孫にて、御兄弟なり、台兄は鎌倉にて山内に屋形有りて、則ら山内と申し、舎弟は扇谷に屋敷有る故扇谷と云ふ、然に京鎌倉ともに代々の後様子ありて、都の公方より鎌倉の公方を誅罰し給ふ事、永享十二年庚申の歳なり、
-
『甲陽軍鑑』品第十三就中右に申す両上杉取り合ひの義、山ノ内のからう扇谷の家老うちより両大将へ異見して、昔しのごとくぶじになり、年月つもり両上杉ながら父は他界まし〳〵、山内は則政公、扇谷は朝義の代になる、山内則政は永正元年甲子の誕生なれば、享禄三年庚寅に廿七歳にて牛角に直らる、扇谷朝義も此時代なり、是れは歳不承候、扨て又北条家は宗雲公·氏縄公二代にて伊豆·相摸両国おさめ、しかも其年享禄三年庚寅には氏縄公子息氏康公十六歳にて初陣に、武蔵の府中へ出でらるゝ、敵は両上杉なり、北条家の果報いみじきゆへか、上杉家めつきやくの瑞相か両上杉又中わろくなり、北条家と取り合ひの義喩へば三方ろんぎのごとし、
-
『甲陽軍鑑』品第十三扨て持氏公子孫御座候とはいへ共、久家のあたりに指置奉り用ゆることさのみなし、さなくして山内·扇谷·両上杉君を仰ぎ申に付ては、都より事故なく持氏対治はし給ひ兼たまはん物を、鎌倉公方の御切腹も旦は両上杉殿、木上見ぬ鷲と驕給ふ故ぞかし、されども果報いみしく国治り一段と安泰にて二代なり、就中両上杉家中作法の儀山内殿は、上野平井に居城有て大石·小幡·長尾·白倉是四人の老なり、扇谷にては上田·太田·見田·荻谷と申て、是も又四人の老ありて居城は相州大塲と云ふ所なり、
-
『甲陽軍鑑』品第十三されども管領則政公には、両出頭のすがの大膳·上原兵庫是を聞て申しけるは、北条宗雲元来伊豆のいかにもちいさき所より出でたる族の、氏康がなにの深きことあるべき、伊豆·相摸両国持ても北条二人·三人合たる程の大身衆、越後·関東·奥両国へかけては則政公御旗下に五六人も在之、上杉家に伝る衆にも北条程の者は有まじげに、はびこるに付ては則政公旗を出され、たゞ一陣に北条家を誅罰し給はんと、すがの·上原両人の口にて、
-
『甲陽軍鑑』品第十二子細は未の年八月より上野平井へ来りて、関東八州へ触状をまはし申し含めらるゝは、旣に関東の公方持氏公天運尽き、永享十二庚申に都の公方より誅罰し給ひ、御子の賢王丸殿·春王丸殿·泰王丸殿此の三人の若君迄ころしまいらせ候を、氏康取り立てらるゝこと非義の至りなり、都より近衛殿を申し請け公方に取り立てまいらせ、上杉管領を仕すへ申さんため、御守りに長尾謙信景虎是れ迄参りたり、氏康は北条なり、北条は平家なり、各これにしたがひ給ふこと勿体なしと申すに付き、関八州尤もと同じける故、氏康また元の伊豆·相摸はかりに成るに付き、蓮池迄をしこまるゝ、
-
『甲陽軍鑑』品第十三去る程に鎌倉の公方を守護し奉る国々は相摸·武蔵·上野·下野·安房·上総·出羽·奥州·佐渡·越後·信濃·飛弾此国々の侍衆、大身·小身ともに悉く守護豊饒の様子なり、併公方世が世にてましますときより、上杉諸侍の棟梁と有る上意を承はつて推量候へば、諸国の侍大小皆此管領一人のさいはいを守る、両上杉とは申せども先山内殿を肝要に用ゆる故、結句後には公方をわきへなし奉り、十人は七人山内殿二人、扇谷へと申て、公方様へは漸々一人も出仕いたさずしてゐたるにより、公方の御仕合せ如此に候へども、山内殿に楯をつく侍一人としてなき故、少しも子細なく治る、