甲陽軍鑑 / 品第四十八
此節山縣あまりにきほひかゝつておしこむゆへ引取事なりかぬる、敵出てくひとむる時、三河牢人に河原村傳兵衞白き四方にふねの字をくろくかきて、差物にしてかへして鑓を合せ敵をおつららし、のくほどに六度迄鑓を合する、彼傳兵衞がふるまひは信玄家にてもあまた有間敷とて信玄公のたまふは、賞功不踰時とありとて、則ち傳兵衛をめしいだされ、御さかづきを給はり、御腰物をくだされて後、當座のほうびとして碁石金を信玄公の自身兩の手に御すくひなされ、三掬ひ彼川原村傳兵衞に下さるゝ高天神小笠原與八郎內の林平六と申武士、遠州つだいじと云ふ所にて日の內に六度の鑓を合すると、此川原村と近代には甚だ以てのはたらきなり、
新字:此節山県あまりにきほひかゝつておしこむゆへ引取事なりかぬる、敵出てくひとむる時、三河牢人に河原村伝兵衛白き四方にふねの字をくろくかきて、差物にしてかへして鑓を合せ敵をおつららし、のくほどに六度迄鑓を合する、彼伝兵衛がふるまひは信玄家にてもあまた有間敷とて信玄公のたまふは、賞功不踰時とありとて、則ち伝兵衛をめしいだされ、御さかづきを給はり、御腰物をくだされて後、当座のほうびとして碁石金を信玄公の自身両の手に御すくひなされ、三掬ひ彼川原村伝兵衛に下さるゝ高天神小笠原与八郎内の林平六と申武士、遠州つだいじと云ふ所にて日の内に六度の鑓を合すると、此川原村と近代には甚だ以てのはたらきなり、
書き下し
此節山県あまりにきほひかゝつておしこむゆへ引取事なりかぬる、敵出てくひとむる時、三河牢人に河原村伝兵衛白き四方にふねの字をくろくかきて、差物にしてかへして鑓を合せ敵をおつららし、のくほどに六度迄鑓を合する、彼伝兵衛がふるまひは信玄家にてもあまた有間敷とて信玄公のたまふは、賞功不踰時とありとて、則ち伝兵衛をめしいだされ、御さかづきを給はり、御腰物をくだされて後、当座のほうびとして碁石金を信玄公の自身両の手に御すくひなされ、三掬ひ彼川原村伝兵衛に下さるゝ高天神小笠原与八郎内の林平六と申武士、遠州つだいじと云ふ所にて日の内に六度の鑓を合すると、此川原村と近代には甚だ以てのはたらきなり、
現代語訳
この節、山県があまりに競い掛かって押し込むゆえに引き取る事が成りかぬる。敵が出て食い止むる時、三河牢人に河原村伝兵衛が、白き四方に船の字を黒く書きて差物にして、返して鑓を合わせ敵を追い散らし、退くほどに六度まで鑓を合わする。かの伝兵衛が振舞いは信玄家にてもあまたあるまじきとて、信玄公がのたまうは、賞功は時を踰えずとありとて、すなわち伝兵衛を召し出だされ、御盃を給わり、御腰物を下されて後、当座の褒美として碁石金を信玄公が自身、両の手に御掬いなされ、三掬いかの河原村伝兵衛に下さるる。高天神の小笠原与八郎の内の林平六と申す武士が、遠州つだいじという所にて日の内に六度の鑓を合わすると、この河原村と、近代には甚だもってのはたらきなり。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『甲陽軍鑑』品第四十三先如此外題をもつて書おかねば其様子聞へかね候間如件一信玄公於御陣手抦をなす者に褒美なさるゝその色々は一御證文上中下有一のし付の刀·脇指一鑓·長刀一のどわ一小袖一羽織一基石金一づきんまで、長持に一ッ持たせ給ふなり、功により又は時のしほにより是を下さるゝ事御使にて給はり、又は家老衆をもつて給り、或は二十人衆の頭·御中間頭衆をもつても給る、さて又御前へめしよせられ給るもあり其様子あり○信玄公軍法之事、
-
『甲陽軍鑑』品第四十八其節辻弥兵衛鑓下の高名して、ひざの口をのぶかに射られ、其矢をぬかずして、とりたるくびを持てきたり大将の山県前にかしこまりゐる、山県大きにいかつてみかたの引とらざる内にもどりたると有儀にて、辻弥兵衛を山県三郎兵衛しかりて塲をおひたつる、其後又味方が原合戦に山県手にて一番鑓はらみ石源右衛門、二番鑓辻弥兵衛と申す此者十七歳の九月初陣より二十九歳の三月までの間に遠州みつけにての物見をそへ以上十度の塲数なり、但し信玄公御證文は三ならでもたず、仔細はみかたが原見付の国府にての儀は信玄公御病気なれば、帰陣有て来春甲府にて下さるべしとて御感状出でざる間、翌年三月の公事なる故によつて御證文三ツならでなし、
-
『甲陽軍鑑』品第四十八信玄公広瀨郷左衛門·みしな肥前·こすげ五郎兵衛、此時代の物をば山県三郎兵衛家中によらず、御分国の諸家中にて老功のおほへある者には十双倍馳走まします仔細は、老功の者は信虎公への奉行半分、信玄公御代に半分わけ〳〵なるが、右三人時代の者はみな信玄公へばかりの忠節忠功の故念比し給ふ、味各別なり、かやうに有て大将の御徳おほし、さりながら又前代の者をも少も愚成様子は無御座者なり、前代の忠功と我取立の忠功とは、取立は先づ心安く、其上我時代の大将をば下々の侍も一入威光つよく申者なり、大小·上下共に武士はことば一ツにても其勝負まつたく、又あやうきこともあり、下として上をはからふ事なしとは申せども、
-
『甲陽軍鑑』品第四十八次の日は山県·松山信玄公御陣所へ帰陣也、さて其後辻弥兵衛富士の大宮神田屋敷において半月の指物をさしたる敵九人出たるを、尾州牢人猪子才蔵と辻弥兵衛と両人にて、敵働らかれぬ細道ゆへか鑓をもちて、ふたきどつゐておしこむ、各味方つゞいて、二木戸ながら破るは悉皆件の才蔵·弥兵衛が大剛强のはたらきゆへ也、中にも弥兵衛は半月指たる者を一人つきふせて討なれば、結句老功の才蔵よりはこしたると云ふ義を信玄公御前にて猪子才蔵がくわしく言上いたし候、
-
『甲陽軍鑑』品第四十八ほどに、かの六郎兵衛永禄四年辛酉に、信州わりが獄の城を信玄公乗取給ふ時、彼六郎兵衛其年四十五歳にて原美濃守·加藤駿河守一所にて無類の働きを仕り、討死をいたすが信玄公殊の外惜み給ふて、六郎兵衛が二十五貫の知行を子共三人に分けて下さるゝ、十二貫は一男·八貫次男·五貫三男、扨て二ツになる男は父が内々出家と申置候とて、妙音寺と申法花坊主に契約也、扨又六郎兵衛が一男は此弥兵衛なり、是を親のごとくに外様近習に罷成申べしと信玄公仰出さるゝ、
-
『甲陽軍鑑』品第四十八さて信玄公馬塲美濃·山県·内藤·高坂各をめしつれられ、しのびて此公事をきゝ給ひ、辻弥兵衛を大方ならず御感あつて機の逸物なる者かな、才覚もあつて弁舌もあきらかなると云ふは、辻弥兵衛がやうなる事にてこそ有らめ道理かな、父は辻六郎兵衛、はは小幡山城とて我家にて十人となき大剛の兵のむすめなり、明日に広瀨·みしな·小菅死しても、若手に又あのやう成者あれは、あとのあかぬ道理なり、我一代は大身·小身ともに日を追てかやうの武士共の出るは是れたゞごとならず、ひとへに八幡大菩薩のめぐみ給ふ故かとて、則ち八幡宮にて神楽有、其護摩上毘沙門堂にて諸侍のために二十一座のごまあり、扨又其後右四人の者を御つかひにて辻弥兵衛申分一段きこへ候とて、則ち東郡にて十五貫の御加恩あり、