甲陽軍鑑 / 品第四十八
酒すぎて後座を立つ時刻に、功力左太夫仲間が今の皮はぎを見しりて、兩人の侍衆へ此者は是皮はぎなりとつぐる、八左衞門·左太夫大ひに腹をたて、宿の玉屋權右衛門に取かゝる、權右衞門は件の皮はぎにかゝる、然れ共小宮山八左衞門·功力左太夫兩人ながら武道の心ばせよき者共にて、八左衞門は上州みか尻合戰に鑓わきをよく射て信玄公の御證文一ツ下さるゝ、左太夫も猶以て二ツまて武邊塲數の御證文を信玄公より給はりたる者共なる故、理を持つても町人などを事あらけなくおどす事聊か是れなし、乍併皮はぎこつじき侍の雜富貴なるに任せ如此候へば貴賤·上下のわかりもなく、さながら侍の作法何も悉皆いらざる事なりとて小宮山八左衞門·功力左太夫兩人書付をもつて奉行衆へ申す、
新字:酒すぎて後座を立つ時刻に、功力左太夫仲間が今の皮はぎを見しりて、両人の侍衆へ此者は是皮はぎなりとつぐる、八左衛門·左太夫大ひに腹をたて、宿の玉屋権右衛門に取かゝる、権右衛門は件の皮はぎにかゝる、然れ共小宮山八左衛門·功力左太夫両人ながら武道の心ばせよき者共にて、八左衛門は上州みか尻合戦に鑓わきをよく射て信玄公の御證文一ツ下さるゝ、左太夫も猶以て二ツまて武辺塲数の御證文を信玄公より給はりたる者共なる故、理を持つても町人などを事あらけなくおどす事聊か是れなし、乍併皮はぎこつじき侍の雑富貴なるに任せ如此候へば貴賤·上下のわかりもなく、さながら侍の作法何も悉皆いらざる事なりとて小宮山八左衛門·功力左太夫両人書付をもつて奉行衆へ申す、
書き下し
酒すぎて後座を立つ時刻に、功力左太夫仲間が今の皮はぎを見しりて、両人の侍衆へ此者は是皮はぎなりとつぐる、八左衛門·左太夫大ひに腹をたて、宿の玉屋権右衛門に取かゝる、権右衛門は件の皮はぎにかゝる、然れ共小宮山八左衛門·功力左太夫両人ながら武道の心ばせよき者共にて、八左衛門は上州みか尻合戦に鑓わきをよく射て信玄公の御證文一ツ下さるゝ、左太夫も猶以て二ツまて武辺塲数の御證文を信玄公より給はりたる者共なる故、理を持つても町人などを事あらけなくおどす事聊か是れなし、乍併皮はぎこつじき侍の雑富貴なるに任せ如此候へば貴賤·上下のわかりもなく、さながら侍の作法何も悉皆いらざる事なりとて小宮山八左衛門·功力左太夫両人書付をもつて奉行衆へ申す、
現代語訳
酒が過ぎて後、座を立つ時刻に、功力左太夫の仲間が今の皮剥を見知りて、両人の侍衆へ、この者はこれ皮剥であると告ぐる。八左衛門・左太夫は大いに腹を立て、宿の玉屋権右衛門に取りかかる。権右衛門は、かの皮剥にかかる。しかれども小宮山八左衛門・功力左太夫は両人ながら武道の心ばえよき者どもにて、八左衛門は上州三箇尻合戦に鑓脇をよく射て信玄公の御証文を一つ下さるる。左太夫もなおもって二つまで武辺場数の御証文を信玄公より給わりたる者どもなるゆえに、理を持っても町人などを事荒けなく脅す事は聊かこれなし。しかしながら、皮剥・乞食が侍の雑、富貴なるに任せてこのとおりに候えば、貴賤・上下の分かりもなく、さながら侍の作法は何も悉く要らざる事であるとて、小宮山八左衛門・功力左太夫の両人は書付をもって奉行衆へ申す。
解説
この章句が説くこと
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『甲陽軍鑑』品第四十八あるひは十年·十五年にてかわり給ふも御座あれば、多·少とりあわせ二十年づゝにつもり候ても五百四五十年計り甲斐国へ乱入なき故、神社·仏閣·町地下·其外非人までも余国よりは少々富貴なり、猿·馬·牛の皮はぐ乞食が騎鞍馬にのり、下人をつれれんじやくかうし玉屋といふ酒屋にて代物を出して酒をのむとき、おりふし向山同心·功力左太夫と申侍、又足軽大将の三枝善右衛門寄子小宮山八左衛門と申信玄公御持弓の者と、両人の侍なにぞ用ありてこそ、これも右の酒屋へまいる、用所おはりて、さかづき出て、暫くさしつさゝれつ盃をめぐらす処に、彼皮剝も侍衆の中へまじり、
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『甲陽軍鑑』品第四十七さるに付て典厩信繁·原美濃守·山本勘介此事始め終り言上也、信玄公きこしめし、寺川·赤口関何れもとしこばい、宿老にて男子道いまだ若きなりと見ゆる侍が、侍にいであふて伐つく事有べきに、さはなくして暫くおし付て罷有は、人にとりさへられたきとある事に相似たり、又押付らるゝ侍も武士が胸へ手をかけられかこると、一度にはや脇ざしをぬきつく所にてはなきか、
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『甲陽軍鑑』品第十六侍大将より武者奉行大切の心持の事付喧嘩の沙汰之事永禄十一年戊辰歳信玄公御搆への丑寅の方に、毘沙門堂を立て給ふ時、爰に越後牢人布施与三兵衛·同牛の助·虎の介と云ふ兄弟三人の侍と、諏訪弥左衛門と草履取りの口論に付て出入有之、彼者ども少身たりといへども各御用に立つ侍どもなれば、信玄公おしみ給ひ四郎勝頼公を御使になされ、両方堪忍仕るべき旨仰せ出さる、布施兄弟委細畏て御請けをば申せども、さすがに武き大将の弓矢の盛りにて、諸国の諸牢人武士のあつまりなれば、諸傍輩を恥ぢて其三日目についに喧嘩に仕り、
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『甲陽軍鑑』品第四十七是身際論ともいはれぬ事、子細は手を手と取あふ程にての勝負也、又手と手を取あふても喧嘩とは申されず候、みぎはへ互による程にて脇指心なき故也、わきざし心なきは一向のわらはべなどのいさかひといふ物也、抑々男が四十·五十にあまり赤口関左衛門·寺川四郎右衛門などゝ官途·受領まで仕る侍が、いさかひなどあるは他国の批判もいかゞ、きはめては信玄が家の瑕になる事なりとて、
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『甲陽軍鑑』品第四十八則ち御蔵の前にて侍衆訴へ、町人の申分非人の者の云ふ事、公事のさたありて武藤三河守·桜井安芸守·今福浄閑此三奉行の中にても今福浄閑は物毎のよき功者なれば此公事をさたいたさるゝ、先侍衆道理至極に候、又町人も代物かぎりに酒商売の事なり、殊更御分国富貴の故、彼非人までもよろしきなりを仕り候は、是もつて万事逆になく、順義の御仕置ゆへこと〳〵く安堵して、誠につたなき非人まで侍のごとく騎鞍馬にのる、さあれば町人のみそこなふたるも道理なり、扨非人が代物かぎりならば、謙に及ばぬと、
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『甲陽軍鑑』品第四十七誠に右敵討の時、長助·長八兄弟は手前十分になき故喧嘩にいたしたるかと屋形様おぼしめすならば、跡にて誰もよく申しあげては有るまじ、さありてはかばねのうへの恥辱なり、さて又是は只の事にあらず、侍道の事なれば目安をもつて信玄公の御さばきに仕られ、それにてまけなば、それは両人次第と石田·矢崎·飯室三人長沼兄弟に異見いたす故、