甲陽軍鑑 / 品第四十八
さて信玄公馬塲美濃·山縣·內藤·高坂各をめしつれられ、しのびて此公事をきゝ給ひ、辻彌兵衞を大方ならず御感あつて機の逸物なる者かな、才覺もあつて辨舌もあきらかなると云ふは、辻彌兵衞がやうなる事にてこそ有らめ道理かな、父は辻六郞兵衞、はは小幡山城とて我家にて十人となき大剛の兵のむすめなり、明日に廣瀨·みしな·小菅死しても、若手に又あのやう成者あれは、あとのあかぬ道理なり、我一代は大身·小身ともに日を追てかやうの武士共の出るは是れたゞごとならず、ひとへに八幡大菩薩のめぐみ給ふ故かとて、則ち八幡宮にて神樂有、其護摩上毘沙門堂にて諸侍のために二十一座のごまあり、扨又其後右四人の者を御つかひにて辻彌兵衞申分一段きこへ候とて、則ち東郡にて十五貫の御加恩あり、
新字:さて信玄公馬塲美濃·山県·内藤·高坂各をめしつれられ、しのびて此公事をきゝ給ひ、辻弥兵衛を大方ならず御感あつて機の逸物なる者かな、才覚もあつて弁舌もあきらかなると云ふは、辻弥兵衛がやうなる事にてこそ有らめ道理かな、父は辻六郎兵衛、はは小幡山城とて我家にて十人となき大剛の兵のむすめなり、明日に広瀨·みしな·小菅死しても、若手に又あのやう成者あれは、あとのあかぬ道理なり、我一代は大身·小身ともに日を追てかやうの武士共の出るは是れたゞごとならず、ひとへに八幡大菩薩のめぐみ給ふ故かとて、則ち八幡宮にて神楽有、其護摩上毘沙門堂にて諸侍のために二十一座のごまあり、扨又其後右四人の者を御つかひにて辻弥兵衛申分一段きこへ候とて、則ち東郡にて十五貫の御加恩あり、
書き下し
さて信玄公馬塲美濃·山県·内藤·高坂各をめしつれられ、しのびて此公事をきゝ給ひ、辻弥兵衛を大方ならず御感あつて機の逸物なる者かな、才覚もあつて弁舌もあきらかなると云ふは、辻弥兵衛がやうなる事にてこそ有らめ道理かな、父は辻六郎兵衛、はは小幡山城とて我家にて十人となき大剛の兵のむすめなり、明日に広瀨·みしな·小菅死しても、若手に又あのやう成者あれは、あとのあかぬ道理なり、我一代は大身·小身ともに日を追てかやうの武士共の出るは是れたゞごとならず、ひとへに八幡大菩薩のめぐみ給ふ故かとて、則ち八幡宮にて神楽有、其護摩上毘沙門堂にて諸侍のために二十一座のごまあり、扨又其後右四人の者を御つかひにて辻弥兵衛申分一段きこへ候とて、則ち東郡にて十五貫の御加恩あり、
現代語訳
さて信玄公は馬場美濃・山県・内藤・高坂をそれぞれ召し連れられ、忍びてこの公事を聞き給い、辻弥兵衛を大方ならず御感あって、機の逸物なる者かな、才覚もあって弁舌も明らかなると言うは、辻弥兵衛のような事にてこそあらめ、道理かな。父は辻六郎兵衛、母は小幡山城とて我が家にて十人となき大剛の兵の娘なり。明日に広瀬・三品・小菅が死しても、若手にまたあのような者があれば、跡の空かぬ道理なり。我が一代は大身・小身ともに、日を追うてかような武士どもの出るは、これただごとならず。ひとえに八幡大菩薩の恵み給うゆえかとて、すなわち八幡宮にて神楽あり、その護摩の上、毘沙門堂にて諸侍のために二十一座の護摩あり。さてまたその後、右の四人の者を御使にて、辻弥兵衛の申し分は一段聞こえ候とて、すなわち東郡にて十五貫の御加恩あり。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『甲陽軍鑑』品第四十八ここに甲州東郡にのろと云ふ在所に辻弥兵衛と申て其年二十九歳になる侍山県三郎兵衛が同心なり、此若者、父は辻六郎兵衛とて信玄公の外様近習四十五騎の内なり、武篇は二十八度の塲数有り、大剛の兵にて、信州かいづの小幡山城入道日意が好んでむこにいたす程の武士なれば、甲州において、米倉一党·辻一党両侍の一類に臆病なる者一人も無之、類親広き中に米倉一党に丹後守·辻一党に六郎兵衛是れ両人は一入名を得たる覚への兵なり、
-
『甲陽軍鑑』品第四十八さて弥兵衛が二番目の弟甚内にも五貫の御加恩、是は一条殿の衆なり、三番目辻弥惣にも五貫の御加恩是は又土屋右衛門尉衆なり、辻弥兵衛が威光をもつて弟の甚内·弥惣までに增知行これ有、但し甚内兄の弥兵衛に結句ましのおぼへ有、さて又みしな·広瀨をば御旗屋へ召よせられ、しかも本のさいはいゆるし下さるゝ、あさからぬ冥加のおほへ者也とほめざる人はなかりける、
-
『甲陽軍鑑』品第四十八辻弥兵衛申すは、尤もかた〳〵の塲数は、いんげんに及ばぬ人の存知たる儀なり、さりながら我等罷出ぬ以前は、それがし親の辻六郎兵衛と申者、各も少しは御存知あらん、六郎兵衛も武辺塲数の御證文十七迄戴き候て外様近習の内に人をこせ共終に人にこされず、度々の手疵をかうふり、あら勝負を仕り、殊に十三年以前に信州わりが嶽にて、当家にかくれなき覚の名人なれば近国·他国まで名高き原美濃殿に立合、則ち其塲にて討死いたす其はたらきは原入道信玄公へ直札申上られ候、其かくれ有まじ、
-
『甲陽軍鑑』品第四十八次の日は山県·松山信玄公御陣所へ帰陣也、さて其後辻弥兵衛富士の大宮神田屋敷において半月の指物をさしたる敵九人出たるを、尾州牢人猪子才蔵と辻弥兵衛と両人にて、敵働らかれぬ細道ゆへか鑓をもちて、ふたきどつゐておしこむ、各味方つゞいて、二木戸ながら破るは悉皆件の才蔵·弥兵衛が大剛强のはたらきゆへ也、中にも弥兵衛は半月指たる者を一人つきふせて討なれば、結句老功の才蔵よりはこしたると云ふ義を信玄公御前にて猪子才蔵がくわしく言上いたし候、
-
『甲陽軍鑑』品第四十八信玄公広瀨郷左衛門·みしな肥前·こすげ五郎兵衛、此時代の物をば山県三郎兵衛家中によらず、御分国の諸家中にて老功のおほへある者には十双倍馳走まします仔細は、老功の者は信虎公への奉行半分、信玄公御代に半分わけ〳〵なるが、右三人時代の者はみな信玄公へばかりの忠節忠功の故念比し給ふ、味各別なり、かやうに有て大将の御徳おほし、さりながら又前代の者をも少も愚成様子は無御座者なり、前代の忠功と我取立の忠功とは、取立は先づ心安く、其上我時代の大将をば下々の侍も一入威光つよく申者なり、大小·上下共に武士はことば一ツにても其勝負まつたく、又あやうきこともあり、下として上をはからふ事なしとは申せども、
-
『甲陽軍鑑』品第四十八さありて広瀨·みしなにさいはいをゆるさねば山県大ぞなへにて人数まはりかぬる、まはりかぬれば自らほさきもよはきやうになる、よはければ合戦·せりあひにをくれをとるぞ、をくれをとれば三郎兵衛が負といはず信玄がまけと云、我ためにて有ほどに、広瀨·みしながさいはいに辻弥兵衛遺恨は相やめてくれ候へ、其方などにも、さいはいゆるしてもよからんずれ共、当時新羅三郎公より武田家の作法にて、侍大将せぬ者に四十をこさねばさいはいゆるさゞる軍法なれば、かた〳〵もつて信玄に免じて物いひすべからず、