甲陽軍鑑 / 品第四十八
就中我等十七歲、みしな十九歲の時かるいざわ合戰の刻、板垣信形下にて別して走り迴りの者をえらび、赤椀にて種々のさかなをとゝのへ振舞を仕る、頸二つ取者には二膳、三には三膳すわり、又手にあわざる衆には黑椀にて精進の振舞を板垣仕られ候時も、我等とみしなとやりを仕、追崩して後みしなは諸岡隼人をうち申す、拙者は藤田丹後と申者をうち候て、みしなと我等とゝ取にいたし、左右の一の上座に罷有候儀、淵底御屋形樣御存知候、其塲へのり申者は今三郞兵衞に御預候者の內も曲淵庄左衞門三膳すはり、上野豐後二膳すはり申候、ことに廣瀨は信濃の川上入道を御成敗の時も、川上をはじめて上下四人を一人にてうち候、左樣の大塲をもふまざる辻彌兵衞が、一ツ二ツのひろいくびにて我等共に、さいはい御免のさまたげは蟷螂が斧とやらんはいまだ愚かに候と申上る、四人の奉行衆も舌をふるひ是非に及ばざるなり、
新字:就中我等十七歳、みしな十九歳の時かるいざわ合戦の刻、板垣信形下にて別して走り迴りの者をえらび、赤椀にて種々のさかなをとゝのへ振舞を仕る、頸二つ取者には二膳、三には三膳すわり、又手にあわざる衆には黒椀にて精進の振舞を板垣仕られ候時も、我等とみしなとやりを仕、追崩して後みしなは諸岡隼人をうち申す、拙者は藤田丹後と申者をうち候て、みしなと我等とゝ取にいたし、左右の一の上座に罷有候儀、淵底御屋形様御存知候、其塲へのり申者は今三郎兵衛に御預候者の内も曲淵庄左衛門三膳すはり、上野豊後二膳すはり申候、ことに広瀨は信濃の川上入道を御成敗の時も、川上をはじめて上下四人を一人にてうち候、左様の大塲をもふまざる辻弥兵衛が、一ツ二ツのひろいくびにて我等共に、さいはい御免のさまたげは蟷螂が斧とやらんはいまだ愚かに候と申上る、四人の奉行衆も舌をふるひ是非に及ばざるなり、
書き下し
就中我等十七歳、みしな十九歳の時かるいざわ合戦の刻、板垣信形下にて別して走り迴りの者をえらび、赤椀にて種々のさかなをとゝのへ振舞を仕る、頸二つ取者には二膳、三には三膳すわり、又手にあわざる衆には黒椀にて精進の振舞を板垣仕られ候時も、我等とみしなとやりを仕、追崩して後みしなは諸岡隼人をうち申す、拙者は藤田丹後と申者をうち候て、みしなと我等とゝ取にいたし、左右の一の上座に罷有候儀、淵底御屋形様御存知候、其塲へのり申者は今三郎兵衛に御預候者の内も曲淵庄左衛門三膳すはり、上野豊後二膳すはり申候、ことに広瀨は信濃の川上入道を御成敗の時も、川上をはじめて上下四人を一人にてうち候、左様の大塲をもふまざる辻弥兵衛が、一ツ二ツのひろいくびにて我等共に、さいはい御免のさまたげは蟷螂が斧とやらんはいまだ愚かに候と申上る、四人の奉行衆も舌をふるひ是非に及ばざるなり、
現代語訳
とりわけ我ら十七歳、三品十九歳の時、軽井沢合戦の刻、板垣信形の下にて別して走り回りの者を選び、赤椀にて種々の肴を調え振舞いを仕る。首二つ取る者には二膳、三には三膳を据わり、また手に合わざる衆には黒椀にて精進の振舞いを板垣がせられ候時も、我らと三品とは鑓を仕り、追い崩して後、三品は諸岡隼人を討ち申す。拙者は藤田丹後と申す者を討ち候て、三品と我らと取取りにいたし、左右の一の上座に罷りあり候儀は、淵底、御屋形様が御存知候。その場へ乗り申す者は、今、三郎兵衛に御預け候者の内も、曲淵庄左衛門が三膳据わり、上野豊後が二膳据わり申し候。ことに広瀬は信濃の川上入道を御成敗の時も、川上をはじめて上下四人を一人にて討ち候。さような大場をも踏まざる辻弥兵衛が、一つ二つの拾い首にて我らどもに采配御免の妨げは、蟷螂が斧とやらんはいまだ愚かに候と申し上ぐる。四人の奉行衆も舌を震い、是非に及ばざるなり。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『甲陽軍鑑』品第四十八我等両人の事、みしなは十八、広瀨は十六歳にて平沢合戦から仕はじめ当年まで三十一年の間に、みしな鑓を八度あはせ、頸数は十六の内に、さいはいを手にかけたる武士の頸を七ッ取候て、旣に御證文十五戴き候、広瀨は三十一年の間に鑓を六度合候て、しるし五十九取申候中に、さいはいを手にかけたる頸を十一取候て御證文十七戴きもち申す、我等両人うち申候者共、信州にては村上殿·誠訪頼氏·ふかしの小笠原殿·上野上杉衆·北条家もらしの御敵の中に、はた奉行或ひは足軽大将、一備への内にて五六人の名有者斗りうつて、さいはいをそへて御実撿を得奉る、
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『甲陽軍鑑』品第四十八かた〳〵の我等罷出ざる以前の武辺は、それがし父の六郎兵衛、ほそ心操をもつて次あひに仕候、左候は十三年以降はわかく候へども各より、ちと我等仕りかさみ申候、其上広瀨殿頸沢山に御取候よし、それは尤も大剛の人なり、さりながら我等の五ツ取候しるしも、ざいこそ手にかけず共、かねまつ黒に付て匂ひ芬々ととめたる頸にて候へば、かた〳〵の討たる者にはます共おとり申まじ、さいはい手にかけたる人よりも結句ましの者にても候べしと申せば、
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『甲陽軍鑑』品第四十七彼の曲淵めは、さんぬる時分信州おたりの城において、城主そなへを出す刻板垣信形さき番にあたる時、彼のおたりと板垣のせり合ひ仕る塲にて、広瀨郷左衛門猪子才蔵鑓をあはする、其上、人を討ち、彼の曲淵みしな伝右衛門鑓下の高名をする、おたりの者共しまけて城へつぼむ、それがし見切り、明日板垣信形が備に旗本の若者共指し添へ、内藤修理·原隼人·道遥軒を大将にして、五千を以てせめんと定むる、
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『甲陽軍鑑』品第四十七其刻広瀨郷左衛門申すは、我等よき馬をもたず、明日城責めあるならば高名にはかまふまじ、今朝城主が乗て出たりし金の馬鎧かけたる馬をとらんとことはり、其ごとく翌日城へおしこみ馬を取り、曲淵も前の日広瀨と一所にて我等は城主の頸をとらんと、諸傍輩のきく所にて板垣信形にことはり、其通り城主を討ち旗本にて諏訪越中が長柄を二本とりて人を十五六人たゝきころばし、其後よき侍を一人頸をねぢきりし、糸のごとくに筋のみへたる頸をもちきたる、
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『甲陽軍鑑』品第四十八御主殿に於て広瀨郷左衛門·みしな肥前両人、一方は又辻弥兵衛左右方の申分あり、先広瀨·みしな申す、公事は何様の者共仕べく候へども、武辺·公事の儀はあひ手によりての儀にて御座候、彼弥兵衛永禄四年川中島合戦初陣にて当年まで十三ヶ年ならで陣は仕候はず候、其上未だ年も二十九歳、武辺の御證文とても二三の儀なり、
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『甲陽軍鑑』品第四十八みしな申は、それは又我等広瀨度々手抦をあらはしたる故なりと申す、辻弥兵衛申すは、手抦も人にこされたるは深き儀にては有まじといへば、みしな申すは、広瀨·我等こしたる人はあまり覚へずといふ、辻弥兵衛申すは、旁はさすがのうでぬきをさする衆が武辺の儀に首尾不合なりといへば、みしな申すは、なにか口の違たる事ありやといへば、辻弥兵衛申すは、さいはいを手にかくる人より上の武士有間敷といひながら、今年さいをゆるされ申候て其以前三十年の間人にすぐれたると云ふは、さて首尾不合にてはなきと申て辻弥兵衛大きに笑へば、みしな一口もあかず、