甲陽軍鑑 / 品第六
如案元就の代に中國手に入り、今までも安藝の毛利とひゞき大身也、さればせんだんは二葉より香しとは能こそ申傳へたれ一安房上總兩國の府君里見義弘公一家の正木大膳といひしもの十二三の歲より、
新字:如案元就の代に中国手に入り、今までも安芸の毛利とひゞき大身也、さればせんだんは二葉より香しとは能こそ申伝へたれ一安房上総両国の府君里見義弘公一家の正木大膳といひしもの十二三の歳より、
書き下し
如案元就の代に中国手に入り、今までも安芸の毛利とひゞき大身也、さればせんだんは二葉より香しとは能こそ申伝へたれ一安房上総両国の府君里見義弘公一家の正木大膳といひしもの十二三の歳より、
現代語訳
案の如く、元就の代に中国が手に入り、今までも安芸の毛利と響いて大身である。であれば、栴檀は二葉より香しとは、よくぞ申し伝えたものである。一、安房・上総両国の府君、里見義弘公の一家に正木大膳といった者は、十二、三の歳から。
解説
少年の一言が後の版図につながったと見て、栴檀は二葉より香しの句で締める。この品はこの一句を軸に、氏康・信玄・謙信・信長・家康・元就と並べてきた。以下も同じ調子で、名を残した侍の少年時代が続いていく。以下も同じ調子で、名を残した侍の少年時代が続いていく。少年の一言が後の版図につながったと見る読み方が、この品の全体を貫いている。
この章句が説くこと
栴檀二葉素質元就少年兆し
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