甲陽軍鑑 / 品第十六
此時一人せばき所に取籠り討こと難儀なるを、加藤駿河守が末子に加藤彌五郞とて、初鹿野源五郞が跡目に成りし初鹿野傳右衛門、其比廿五歲成けるが大强の者にて、諸人にすぐれ材木のきれを取てさしかざし、押込み、むずと組で繩をかくる、信玄公も手抦に思し召しけり、惣じて此彌五郞を內々は取立て、めしつかはるべきこと御本意たりといへども、
新字:此時一人せばき所に取籠り討こと難儀なるを、加藤駿河守が末子に加藤弥五郎とて、初鹿野源五郎が跡目に成りし初鹿野伝右衛門、其比廿五歳成けるが大强の者にて、諸人にすぐれ材木のきれを取てさしかざし、押込み、むずと組で縄をかくる、信玄公も手抦に思し召しけり、惣じて此弥五郎を内々は取立て、めしつかはるべきこと御本意たりといへども、
書き下し
此時一人せばき所に取籠り討こと難儀なるを、加藤駿河守が末子に:加藤弥五郎とて、初鹿野源五郎が跡目に成りし初鹿野伝右衛門、其比廿五歳成けるが大强の者にて、諸人にすぐれ材木のきれを取てさしかざし、押込み、むずと組で縄をかくる、信玄公も手抦に思し召しけり、惣じて此弥五郎を内々は取立て、めしつかはるべきこと御本意たりといへども、
現代語訳
この時、一人が狭い所に取り籠もって討つことが難儀であったのを、加藤駿河守の末子に加藤弥五郎といって、初鹿野源五郎の跡目になった初鹿野伝右衛門、その頃二十五歳であったが、大強の者で諸人にすぐれ、材木の切れを取って差しかざして押し込み、むずと組んで縄をかけた。信玄公も手柄に思し召された。総じてこの弥五郎を、内々では取り立てて召し使われるべきことがご本意であったけれども。
解説
狭い所に立て籠もった相手を、材木の切れを盾にして押し込み、組み伏せて生け捕った。斬らずに縄をかけたところが手柄とされている。二十五歳の若者の働きが具体的に描かれ、この後に続く、それでも取り立てなかった理由への前置きになっている。斬らずに縄をかけたところが手柄とされている。この働きがあってなお取り立てられなかった理由は、次の段で言葉づかいとして語られる。
この章句が説くこと
手柄初鹿野生捕若武勇喧嘩
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