甲陽軍鑑 / 起巻
起卷第一此書物假名づかひ、萬事無穿鑿にて、物知の御覽候ば、一ツとしてよき事なくて、わらひ草になり申へく候、子細は我等、元來百姓なれ共、不慮に十六歲の春、召出され、地下をいで春日源五郞になり、奉公申、しかも油斷なく御前に相つめ、少も學問仕べき、隙なき故、文盲第一にて如件、さりながらあしき事をば、すて給ひ、此理窟を取て、當屋形勝賴公より、太郞信勝公御代迄、上下諸侍の作法になさるへき事長坂長閑老·跡部大炊介殿·失念有まじ、
新字:起巻第一此書物仮名づかひ、万事無穿鑿にて、物知の御覧候ば、一ツとしてよき事なくて、わらひ草になり申へく候、子細は我等、元来百姓なれ共、不慮に十六歳の春、召出され、地下をいで春日源五郎になり、奉公申、しかも油断なく御前に相つめ、少も学問仕べき、隙なき故、文盲第一にて如件、さりながらあしき事をば、すて給ひ、此理窟を取て、当屋形勝頼公より、太郎信勝公御代迄、上下諸侍の作法になさるへき事長坂長閑老·跡部大炊介殿·失念有まじ、
書き下し
起巻第一此書物仮名づかひ、万事無穿鑿にて、物知の御覧候ば、一ツとしてよき事なくて、わらひ草になり申へく候、子細は我等、元来百姓なれ共、不慮に十六歳の春、召出され、地下をいで春日源五郎になり、奉公申、しかも油断なく御前に相つめ、少も学問仕べき、隙なき故、文盲第一にて如件、さりながらあしき事をば、すて給ひ、此理窟を取て、当屋形勝頼公より、太郎信勝公御代迄、上下諸侍の作法になさるへき事長坂長閑老·跡部大炊介殿·失念有まじ、
現代語訳
甲陽軍鑑起巻第一。この書物は仮名遣いも万事の詮索もせずに書いたので、物を知る方がご覧になれば、一つとしてよい事がなく、笑い草になり申すであろう。その子細は、我らはもともと百姓であるけれども、思いがけず十六歳の春に召し出され、地下を出て春日源五郎になり、奉公を申した。しかも油断なく御前に詰めていて、少しも学問をすべき隙がなかったゆえに、文盲第一である、以上のとおりである。しかしながら悪い所は捨てられて、この理屈だけを取って、当屋形の勝頼公から太郎信勝公の御代まで、上下の諸侍の作法になさるべき事である。長坂長閑老、跡部大炊介殿、失念あるまじきこと。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
『弁名』理氣人欲孟子も亦た弁を好みて、先王孔子の言はざる所の者を言ひて以て人を喩さんと欲す。故に曰く、「理義の我が心を悦ばすは、猶ほ芻豢の我が口を悦ばすがごとし」と。但だ其の義を以て連言する者は、孔子の沢未だ斬えざるのみ。宋の諸老先生に至りて、千載の後に生まれ、其の志を操ること鋭く、直ちに聖人為らんことを求むるも、其の道を得ざるなり。古言に昧くして其の説を得ざるなり。独り孟子の読み易きが若きを喜びて、諸を己が心に求むれば、則ち諸を其の理に求めざるを得ず。是れ其の理を以て第一義と為す者は、勢の必ず至る所なり。
-
『弁名』理氣人欲夫れ理は事物皆之れ有り。故に理は繊細なる者なり。宋儒の意、其の細を合すれば以て其の大を成すべしと謂ふ。豈に其れ然らんや。銖銖にして之を求むれば、鈞に至りて差ふ。寸寸にして之を求むれば、丈に至りて差ふ。何となれば、凡人の見る所は小にして、聖人の見る所は大なり。見る所大なれば、則ち小なる者遺れず。聖人の及ぶべからざる所以なり。人苟も聖人の教に循ひて其の大なる者を得れば、則ち小なる者自ら失はず。其れ或いは之を失ふと雖も、亦た大害無し。何となれば、其の大なる者を失はざるが故なり。大なる者は何ぞ。礼と義と是れなり。聖人の極を立つる所なり。宋儒の理を尚ぶ、其の究は聖人を師とせずして自ら用ふるに帰す。是れ其の失する所以なり。
-
『学則』答屈景山書宋儒の伝注は、唯理を其の心に求めて以て之を言ふ。夫れ理なる者は定準無き者なり。聖人の心は得て測るべからず。唯聖のみ聖を識る。宋儒の為す所、豈に倨らざらんや。不佞は則ち敢へてせず。夫れ道は則ち高し美し。譾劣の資は企て及ぶべからず。故に卑卑焉として諸を事と辞とに求む。其の心に謂へらく、儒者の業は、唯古の聖人の書を守りて以て後世に詔ぐ、其れ斯れ可なりと。後賢の説は高妙なりと雖も、其の事辞に於いて合はざる有り。何を以て其の聖人の心と道とに於いて必ず合ふを知らんや。君子は其の知らざる所に於いて、蓋し闕如たり。且つ聖人の教へは天下に被る。天下の人、愚と不肖と亦た夥しいかな。故に卑卑焉たる者も、何ぞ必ずしも聖人の指に盭らんや。是れ不佞の心なり。
-
『都鄙問答』卷之二・或學者、商人ノ學問ヲ譏ノ段曰く、汝は理を直ちに命と云ふ、是大いに誤れり。理は玉の理なり。又総て物の理なれば、通るまでのことにて死物なり。命は、書経にも、惟れ命は常に于てせずと云へり。天の降せる命なれば、活物の性なり。斯くのごとく別なり。然るを、死活を以て一致とするは如何なることぞ。
-
『慎思録』巻之二大学或問に曰く、天下の物は、必ず各々其の然る所以の故と、其の当に然るべき所の則と有り。所謂理なり、と。愚謂ふ、当に然るべき所の者は、理の見易き者なり。所謂粗なり。然る所以の者は、理の見難き者なり。所謂精なり。夫れ理は一なり。其の表裏精粗有るを以て、二者の別有り。
-
『童子問』卷中問ふ、理の字何の故に生生化化の原と為すに足らざるか。曰く、理は本死字なり。物に在りて物を宰すること能はず。生物に在りては生物の理有り、死物には死物の理有り。人には則ち人の理有り、物には則ち物の理有り。然れども一元の気之が本と為りて、理は則ち気の後に在り。故に理は以て万化の枢紐と為すに足らざるなり。万物は五行に本づき、五行は陰陽に本づく。再び推して陰陽の然る所以に至れば、則ち之を理に帰せざること能はず。既に理に帰すれば、則ち自ら虚無に陥らざること能はず。所謂万法一に帰す、一何れの所にか帰す、是れなり。此れ常識の必ず此に至る所以にして、聖人と自ら相違ふなり。惟だ聖人のみ能く天地の一大活物にして、理の字を以て之を尽くすべからざることを識る。故に彖に之を賛して曰く、大いなるかな乾元、至れるかな坤元と。至れり尽くせり。若し天地の真に活物なることを知らば、汝に許す、即身即ち伏犠なることを。