甲陽軍鑑 / 品第四十
信玄公高山和尙を拜し給ふ也一信玄公東美濃御陣前に、高坂·山縣·内藤·馬塲美濃·眞田源太左衛門·同兵部介·小山田彌三郞·小山田備中·朝比奈駿河守·岡部二郞右衛門、其外駿河侍各又小幡·安中を始め上野侍此衆を召して信玄公仰らるゝ、予が煩ひ、かくの分に平愈して三年の間に都へ入り候はゞ、又五年の內には六十餘州を治め取て旁を國持に申付る時、其國の大小をくぢどりさするならば、其多少は面々の果報次第、扨又國と郡のなみに入る事必ず忠節をぬきんずる人は國主也、少しも手抦劣たるは郡取らんと思へ、國なみにいるる事、郡のなみにいるる事、武功の故ならんと大身衆へ信玄公直に仰せ渡さるゝ間、大身衆の事は申すに及ばす是を聞ほどの諸侍大小ともにいさむなり一或時小山田彌三郎申す、
新字:信玄公高山和尚を拝し給ふ也一信玄公東美濃御陣前に、高坂·山県·内藤·馬塲美濃·真田源太左衛門·同兵部介·小山田弥三郎·小山田備中·朝比奈駿河守·岡部二郎右衛門、其外駿河侍各又小幡·安中を始め上野侍此衆を召して信玄公仰らるゝ、予が煩ひ、かくの分に平愈して三年の間に都へ入り候はゞ、又五年の内には六十余州を治め取て旁を国持に申付る時、其国の大小をくぢどりさするならば、其多少は面々の果報次第、扨又国と郡のなみに入る事必ず忠節をぬきんずる人は国主也、少しも手抦劣たるは郡取らんと思へ、国なみにいるる事、郡のなみにいるる事、武功の故ならんと大身衆へ信玄公直に仰せ渡さるゝ間、大身衆の事は申すに及ばす是を聞ほどの諸侍大小ともにいさむなり一或時小山田弥三郎申す、
書き下し
信玄公高山和尚を拝し給ふ也一信玄公東美濃御陣前に、高坂·山県·内藤·馬塲美濃·真田源太左衛門·同兵部介·小山田弥三郎·小山田備中·朝比奈駿河守·岡部二郎右衛門、其外駿河侍各又小幡·安中を始め上野侍此衆を召して信玄公仰らるゝ、予が煩ひ、かくの分に平愈して三年の間に都へ入り候はゞ、又五年の内には六十余州を治め取て旁を国持に申付る時、其国の大小をくぢどりさするならば、其多少は面々の果報次第、扨又国と郡のなみに入る事必ず忠節をぬきんずる人は国主也、少しも手抦劣たるは郡取らんと思へ、国なみにいるる事、郡のなみにいるる事、武功の故ならんと大身衆へ信玄公直に仰せ渡さるゝ間、大身衆の事は申すに及ばす是を聞ほどの諸侍大小ともにいさむなり一或時小山田弥三郎申す、
現代語訳
信玄公は高山和尚を拝し給うのである。一、信玄公が東美濃の御陣前に、高坂・山県・内藤・馬場美濃・真田源太左衛門・同兵部介・小山田弥三郎・小山田備中・朝比奈駿河守・岡部次郎右衛門、そのほか駿河侍それぞれ、また小幡・安中をはじめ上野侍、この衆を召して信玄公が仰せられる。予が煩い、この分に平癒して三年のあいだに都へ入り候わば、また五年の内には六十余州を治め取って、方々を国持に申し付ける時、その国の大小をくじ取りさせるならば、その多少は面々の果報次第。さてまた、国と郡の並みに入る事は、必ず忠節を抜きんずる人は国主である。少しも手柄の劣ったのは郡を取ろうと思え。国並みに入る事、郡並みに入る事は、武功のゆえであろうと、大身衆へ信玄公が直に仰せ渡されるあいだ、大身衆の事は申すに及ばず、これを聞くほどの諸侍は大小ともに勇むのである。一、ある時、小山田弥三郎が申す。
解説
この章句が説くこと
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『甲陽軍鑑』品第四十二明けくれ雑談を聞給ふ故なりと馬塲美濃高坂弾正に語る也信玄公軍法之御挨拶人一馬塲美濃軍の被成様申上る一山県三郎兵衛御働きなされてよきとすゝめ申上る一内藤修理何方へ御働きと指図申上る、其様子は北条家をかすめ給ふにも、伊豆か相摸か、はちかたか、関東にては新出·足利か、家康にては遠州か三河か信長東美濃か、扨は越後かと様子を積りて内藤申上る一高坂弾正者二ツなく敵国へふかく働き或は御一戦必ず御延引と計り申上、能く隠密するにより働きまへにしれず、但し侍大将衆は存候なり一文のいる事には小山田弥三郎をめして、七書·五経の古語をいはせて聞給ふ一何国先方衆にも疑ひ有るなしの御用心の事は土屋右衛門尉·三枝勘解由左衛門·真田喜兵衛·曽根内匠申上るに少しも私しなし一陣取、或は他国にて陣塲をみたつる事原隼人佐次第に被成候也一他国より御客来の挨拶、又は状文の取引は跡部大炊介·長坂長閑是の両人なり、
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『甲陽軍鑑』品第四十八信玄公広瀨郷左衛門·みしな肥前·こすげ五郎兵衛、此時代の物をば山県三郎兵衛家中によらず、御分国の諸家中にて老功のおほへある者には十双倍馳走まします仔細は、老功の者は信虎公への奉行半分、信玄公御代に半分わけ〳〵なるが、右三人時代の者はみな信玄公へばかりの忠節忠功の故念比し給ふ、味各別なり、かやうに有て大将の御徳おほし、さりながら又前代の者をも少も愚成様子は無御座者なり、前代の忠功と我取立の忠功とは、取立は先づ心安く、其上我時代の大将をば下々の侍も一入威光つよく申者なり、大小·上下共に武士はことば一ツにても其勝負まつたく、又あやうきこともあり、下として上をはからふ事なしとは申せども、
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『甲陽軍鑑』品第四十一或る年信玄公旗本の少身なる人に、長貫と云侍と高坂弾正甥春日惣次郎と申侍と、知行百姓の堺問答にてしかも春日惣次郎道理也、然る所に信玄公馬塲美濃守·内藤修理正·高坂弾正·山県三郎兵衛·小山田備中·真田源太左衛門·小山田弥三郎其外各を召て仰出さるゝは、信玄が家にて武辺手抦の事は申に及ばず、公事沙汰其外一切の儀四ヶ条は一入心つくる仕置也、第一大身衆親類の事、第二に我前へ出ずする者の親類共の事、第三に武田一家衆の事、第四に小身にても類親広き者共の事、右四人をば十の理を七ツのけて三ツと聞候間、此度春日惣次郎公事理なり共負に仕候へとて春日惣次郎公事の理を持候へ共高坂弾正が甥なる故、其公事惣次郎負になる、
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『甲陽軍鑑』品第四十見田が様成侍をば命を助け、少の扶持かたあたゆるは大成恩賞也、但し敵をしても己が身上つぶれずして降参仕る侍をば、かたのごとく念比して置は国持大将の専ら工夫の上致す義、降参の侍是も忠節の中也と信玄公仰出され、
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『甲陽軍鑑』品第四十本知を下され候へば辱なく存知、御譜代の衆にも同前に其身も存知、上様も左様思召、殊に大熊輝虎の機にちがひ甲州へ参候て山県同心に也数度の手抦故、出頭小宰相の婿に仰付られ取立給ふ故、是も御譜代のごとくなり、それを上杉扇谷老四人の内、見田と申侍聞候て甲州へ参り、長坂長閑·跡部大炊介を頼、御家へ奉公に罷出る、信玄公かこへ置給へど切符少づゝにて召置ると、長坂長閑信玄公へ申上る、越後牢人大熊なみに見田をも御取立あれかしと言上いたせば、
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『甲陽軍鑑』品第四十一右五ヶ条の理なり一信玄公右の趣善悪のさた黒白のごとくわかり賞罰明らかなる事天のごとく地のごとくあそばし、よく法度をたて、よくさいはいを取て味方をいさめ、敵をおかし掠め給ふ事よろしき子細は、先関東の敵馬上の戦ひよくして馬を入乗きり、足軽上手なれば此敵には信玄公家老内藤修理又は小山田弥三郎をさしむけらるゝ、越後の謙信には高坂弾正に小幡山城入道をかいそへにさし添あてがひなさるゝ、三河武者家康衆は、こがへしよくする侍どもなりとて山県三郎兵衛をさしむけ給ふ、三郎兵衛こいくさをよくもつ仁なり、