甲陽軍鑑 / 品第四十
其時土屋山縣にとふ、若き者共に色々の樣子これあるを、それがし心ざしては候へ共、其かたぎをみつけぬ事、我等いたらぬ故如此、然れば御さきをなさるこ侍大將衆いづれもなれど、山縣殿には若き衆に仕出の、兵一入際限なし、何とぞ目利あそばす證據候やと土屋右衞門尉とへば、
新字:其時土屋山県にとふ、若き者共に色々の様子これあるを、それがし心ざしては候へ共、其かたぎをみつけぬ事、我等いたらぬ故如此、然れば御さきをなさるこ侍大将衆いづれもなれど、山県殿には若き衆に仕出の、兵一入際限なし、何とぞ目利あそばす證拠候やと土屋右衛門尉とへば、
書き下し
其時土屋山県にとふ、若き者共に色々の様子これあるを、それがし心ざしては候へ共、其かたぎをみつけぬ事、我等いたらぬ故如此、然れば御さきをなさるこ侍大将衆いづれもなれど、山県殿には若き衆に仕出の、兵一入際限なし、何とぞ目利あそばす證拠候やと土屋右衛門尉とへば、
現代語訳
土屋右衛門尉の所へ山県三郎兵衛尉が振舞いに参られた時、その時、土屋が山県に問う。若い者どもにいろいろの様子があるのを、それがしは志してはおりますけれども、その気質を見つけられない事、我らが至らないゆえにこのとおりである。しからば御先をなされる侍大将衆はいずれもそうであるけれども、山県殿には若い衆に仕出しの兵がひとしお際限がない。何とか目利きなさる証拠がございますかと、土屋右衛門尉が問えば。
解説
若い者の気質が見抜けないと、侍大将が同輩に率直に尋ねる場面。山県の手勢からは若い有望株が次々に出るという事実を挙げ、その目利きに証拠があるのかと問う。自分の至らなさを先に置いてから聞くのが、この家の尋ね方である。自分の至らなさを先に置いてから聞くのが、この家の尋ね方である。目利きに証拠があるのかと問うところまで含めて、率直なやりとりになっている。
この章句が説くこと
目利き若気質山県土屋問
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『甲陽軍鑑』品第四十大略の事をなされ、五百·千の中にも一二人にすぐれたるごとくに仰らるゝ衆は、ゆく〳〵ふかき事はなきものにて候間、其心へあそばし常に山県殿をはじめ各ほまれの大身衆、又は小身にてもおほへをとりたる者の雑談をきゝ、万事せんさくさたなされ尤なり、
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