甲陽軍鑑 / 品第四十
大略の事をなされ、五百·千の中にも一二人にすぐれたるごとくに仰らるゝ衆は、ゆく〳〵ふかき事はなきものにて候間、其心へあそばし常に山縣殿をはじめ各ほまれの大身衆、又は小身にてもおほへをとりたる者の雜談をきゝ、萬事せんさくさたなされ尤なり、
新字:大略の事をなされ、五百·千の中にも一二人にすぐれたるごとくに仰らるゝ衆は、ゆく〳〵ふかき事はなきものにて候間、其心へあそばし常に山県殿をはじめ各ほまれの大身衆、又は小身にてもおほへをとりたる者の雑談をきゝ、万事せんさくさたなされ尤なり、
書き下し
大略の事をなされ、五百·千の中にも一二人にすぐれたるごとくに仰らるゝ衆は、ゆく〳〵ふかき事はなきものにて候間、其心へあそばし常に山県殿をはじめ各ほまれの大身衆、又は小身にてもおほへをとりたる者の雑談をきゝ、万事せんさくさたなされ尤なり、
現代語訳
おおかたの事をなされて、五百・千の中でも一、二人にすぐれたように仰せられる衆は、行く行く深い事はないものでございますから、その心得を遊ばして、常に山県殿をはじめそれぞれ誉れの大身衆、または小身であっても覚えを取った者の雑談を聞き、万事の詮索や沙汰をなさるのがもっともである。
解説
早くから飛び抜けていると言われる者ほど、後が続かないという観察。だから若いうちは自分が出るより、名のある者の雑談を聞いて詮索せよと勧める。前段の、何もしないあいだが奥深いという言葉が、ここで具体の助言に変わる。前段の、何もしないあいだが奥深いという言葉が、ここで具体の助言に変わる。自分が出るより、名のある者の雑談を聞いて詮索せよという。
この章句が説くこと
若早熟雑談聞詮索育成
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