甲陽軍鑑 / 品第四十八
次の日は山縣·松山信玄公御陣所へ歸陣也、さて其後辻彌兵衛富士の大宮神田屋敷において半月の指物をさしたる敵九人出たるを、尾州牢人猪子才藏と辻彌兵衛と兩人にて、敵働らかれぬ細道ゆへか鑓をもちて、ふたきどつゐておしこむ、各味方つゞいて、二木戶ながら破るは悉皆件の才藏·彌兵衛が大剛强のはたらきゆへ也、中にも彌兵衛は半月指たる者を一人つきふせて討なれば、結句老功の才藏よりはこしたると云ふ義を信玄公御前にて猪子才藏がくわしく言上いたし候、
新字:次の日は山県·松山信玄公御陣所へ帰陣也、さて其後辻弥兵衛富士の大宮神田屋敷において半月の指物をさしたる敵九人出たるを、尾州牢人猪子才蔵と辻弥兵衛と両人にて、敵働らかれぬ細道ゆへか鑓をもちて、ふたきどつゐておしこむ、各味方つゞいて、二木戸ながら破るは悉皆件の才蔵·弥兵衛が大剛强のはたらきゆへ也、中にも弥兵衛は半月指たる者を一人つきふせて討なれば、結句老功の才蔵よりはこしたると云ふ義を信玄公御前にて猪子才蔵がくわしく言上いたし候、
書き下し
次の日は山県·松山信玄公御陣所へ帰陣也、さて其後辻弥兵衛富士の大宮神田屋敷において半月の指物をさしたる敵九人出たるを、尾州牢人猪子才蔵と辻弥兵衛と両人にて、敵働らかれぬ細道ゆへか鑓をもちて、ふたきどつゐておしこむ、各味方つゞいて、二木戸ながら破るは悉皆件の才蔵·弥兵衛が大剛强のはたらきゆへ也、中にも弥兵衛は半月指たる者を一人つきふせて討なれば、結句老功の才蔵よりはこしたると云ふ義を信玄公御前にて猪子才蔵がくわしく言上いたし候、
現代語訳
次の日は山県が松山の信玄公御陣所へ帰陣なり。さてその後、辻弥兵衛が富士の大宮の神田屋敷において、半月の指物を差したる敵九人が出たるを、尾州牢人の猪子才蔵と辻弥兵衛と両人にて、敵が働かれぬ細道ゆえか鑓を持ちて、二木戸を突き居て押し込む。方々味方が続いて、二木戸ながら破るは、悉く件の才蔵・弥兵衛が大剛強の働きゆえなり。中にも弥兵衛は半月を指したる者を一人突き伏せて討ちなれば、結局は老功の才蔵よりは越したると言う義を、信玄公御前にて猪子才蔵が詳しく言上いたし候。
解説
この章句が説くこと
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『甲陽軍鑑』品第四十八其節辻弥兵衛鑓下の高名して、ひざの口をのぶかに射られ、其矢をぬかずして、とりたるくびを持てきたり大将の山県前にかしこまりゐる、山県大きにいかつてみかたの引とらざる内にもどりたると有儀にて、辻弥兵衛を山県三郎兵衛しかりて塲をおひたつる、其後又味方が原合戦に山県手にて一番鑓はらみ石源右衛門、二番鑓辻弥兵衛と申す此者十七歳の九月初陣より二十九歳の三月までの間に遠州みつけにての物見をそへ以上十度の塲数なり、但し信玄公御證文は三ならでもたず、仔細はみかたが原見付の国府にての儀は信玄公御病気なれば、帰陣有て来春甲府にて下さるべしとて御感状出でざる間、翌年三月の公事なる故によつて御證文三ツならでなし、
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『甲陽軍鑑』品第四十八ここに甲州東郡にのろと云ふ在所に辻弥兵衛と申て其年二十九歳になる侍山県三郎兵衛が同心なり、此若者、父は辻六郎兵衛とて信玄公の外様近習四十五騎の内なり、武篇は二十八度の塲数有り、大剛の兵にて、信州かいづの小幡山城入道日意が好んでむこにいたす程の武士なれば、甲州において、米倉一党·辻一党両侍の一類に臆病なる者一人も無之、類親広き中に米倉一党に丹後守·辻一党に六郎兵衛是れ両人は一入名を得たる覚への兵なり、
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『甲陽軍鑑』品第四十八辻弥兵衛申すは、尤もかた〳〵の塲数は、いんげんに及ばぬ人の存知たる儀なり、さりながら我等罷出ぬ以前は、それがし親の辻六郎兵衛と申者、各も少しは御存知あらん、六郎兵衛も武辺塲数の御證文十七迄戴き候て外様近習の内に人をこせ共終に人にこされず、度々の手疵をかうふり、あら勝負を仕り、殊に十三年以前に信州わりが嶽にて、当家にかくれなき覚の名人なれば近国·他国まで名高き原美濃殿に立合、則ち其塲にて討死いたす其はたらきは原入道信玄公へ直札申上られ候、其かくれ有まじ、
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『甲陽軍鑑』品第四十八さて信玄公馬塲美濃·山県·内藤·高坂各をめしつれられ、しのびて此公事をきゝ給ひ、辻弥兵衛を大方ならず御感あつて機の逸物なる者かな、才覚もあつて弁舌もあきらかなると云ふは、辻弥兵衛がやうなる事にてこそ有らめ道理かな、父は辻六郎兵衛、はは小幡山城とて我家にて十人となき大剛の兵のむすめなり、明日に広瀨·みしな·小菅死しても、若手に又あのやう成者あれは、あとのあかぬ道理なり、我一代は大身·小身ともに日を追てかやうの武士共の出るは是れたゞごとならず、ひとへに八幡大菩薩のめぐみ給ふ故かとて、則ち八幡宮にて神楽有、其護摩上毘沙門堂にて諸侍のために二十一座のごまあり、扨又其後右四人の者を御つかひにて辻弥兵衛申分一段きこへ候とて、則ち東郡にて十五貫の御加恩あり、
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『甲陽軍鑑』品第四十八右の辻六郎兵衛武辺二十八度の塲数にて、御證文十七給はるとあるは首尾不合のやうなれども、惣別武辺十度の塲数には證文下さるゝほどなるは二度相おほくして、三度ならでなき物なれども、此辻弥兵衛がはたらきは十度の内九度は非だちのいらざるつよみなり、さるほどに辻弥兵衛差物はあかねのふきぬき、和田加介は白き練のふきぬきにて山県同心の内にて若手には辻弥兵衛·和田加介両人なり、又長坂宮内左衛門·今福求ノ介是両人も若手の武士なり、
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『甲陽軍鑑』品第四十八則ち其年九月十日に川中島合戦の時、右の辻弥兵衛よき者をうつて手疵二ケ所かうふる、翌年松山陣の時、山県三郎兵衛一手にてみのわへはたらく時、日の内に三度せりあひに三度ながら辻弥兵衛首尾を合する山県下にて鑓をあはせ候者は初めの度、古畑伯耆·小菅五郎兵衛·鑓下の高名は長坂宮内左衛門·早川弥三左衛門·辻弥兵衛、二度目のせりあひに鑓合するは広瀨郷左衛門·みしな内膳·西巻監物鑓下の高名、辻弥兵衛·和田賀助·渡辺三左衛門右三人目の三左衛門是は山県被官なり、又三度のせりあひに、鑓は上野豊後·早川弥三左衛門·辻弥兵衛鑓下の高名、猪子才蔵·広瀨郷左衛門·曲淵庄左衛門·此庄左衛門は前両度のせりあひに両度ながら人を討、少しづゝ手負候へ共、ぬきんでたる高名なきとて三度めに鑓下の高名也、