甲陽軍鑑 / 品第四十三
鐵炮は大永六年に井上新左衞門といふ西國牢人信虎公へ奉公申し、此侍鐵炮持來り訓たりと申傳、さりながらまれなりと聞く、其後信玄公御わかき時は、かち路大膳·同又作と申す牢人親子あり、此待各々に訓候、近年は佐藤市齋と申す牢人來りて訓める也、今は侍衆皆鐵炮よく上手にうたるゝ中に、
新字:鉄炮は大永六年に井上新左衛門といふ西国牢人信虎公へ奉公申し、此侍鉄炮持来り訓たりと申伝、さりながらまれなりと聞く、其後信玄公御わかき時は、かち路大膳·同又作と申す牢人親子あり、此待各々に訓候、近年は佐藤市斎と申す牢人来りて訓める也、今は侍衆皆鉄炮よく上手にうたるゝ中に、
書き下し
鉄炮は大永六年に井上新左衛門といふ西国牢人信虎公へ奉公申し、此侍鉄炮持来り訓たりと申伝、さりながらまれなりと聞く、其後信玄公御わかき時は、かち路大膳·同又作と申す牢人親子あり、此待各々に訓候、近年は佐藤市斎と申す牢人来りて訓める也、今は侍衆皆鉄炮よく上手にうたるゝ中に、
現代語訳
鉄炮は大永六年に、井上新左衛門という西国の牢人が信虎公へ奉公を申し、この侍が鉄炮を持って来て教えたと申し伝える。しかしながら稀であったと聞く。その後、信玄公が御若い時は、かち路大膳・同じく又作と申す牢人の親子がいた。この侍たちがめいめいに教え候。近年は佐藤市斎と申す牢人が来て教えるのである。今は侍衆が皆、鉄炮をよく上手に撃たれる中に、
解説
新しい道具が家に入ってくる筋道を、三代にわたって書き留めている。いずれも他国から来た牢人が持ち込み、教えた。技術は家中では生まれず、外から来る者に付いて来る。だから牢人を召し抱える意味がある、という話にもつながっている。技術は家中では生まれず、外から来る者に付いて来る。だから牢人を召し抱える意味がある、という話にもつながっている一段である。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
鉄炮牢人技術伝来師新式
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