甲陽軍鑑 / 品第四十
家康いま信長と二世迄の入魂につき兩方加勢をすけあひ、それ故ふたりけんごなれ共、信長敵は上方十四ヶ國の間にて信長に國とられぬをもとにして、信長國へとりかけんと存ずる武士一人もなき故かくのごとく次第に大身なる、家康はいつまでも三河一國、遠州三ケ一ならば終には家康·信長被官のやうになりて後祝言は申しつ、信玄公の明日にも目をふさぎ給はゝ信長安堵して、今こそ嫡子の城介殿と同意に思ふとて、三ツの桃を一ツ送る共、强敵·大敵の六ケ敷信玄公御座なくば家康を信長ころし候はん、それに大事なくば家康果報の儀、少々のかんがへには成りかね申さんと高坂がいへば、馬塲美濃大誓文をたて我等もそれなりと云ふ、內藤修理も同誓文にて右の通りなり一或時小笠原慶安齋へ宿老衆振舞によりあふて、
新字:家康いま信長と二世迄の入魂につき両方加勢をすけあひ、それ故ふたりけんごなれ共、信長敵は上方十四ヶ国の間にて信長に国とられぬをもとにして、信長国へとりかけんと存ずる武士一人もなき故かくのごとく次第に大身なる、家康はいつまでも三河一国、遠州三ケ一ならば終には家康·信長被官のやうになりて後祝言は申しつ、信玄公の明日にも目をふさぎ給はゝ信長安堵して、今こそ嫡子の城介殿と同意に思ふとて、三ツの桃を一ツ送る共、强敵·大敵の六ケ敷信玄公御座なくば家康を信長ころし候はん、それに大事なくば家康果報の儀、少々のかんがへには成りかね申さんと高坂がいへば、馬塲美濃大誓文をたて我等もそれなりと云ふ、内藤修理も同誓文にて右の通りなり一或時小笠原慶安斎へ宿老衆振舞によりあふて、
書き下し
家康いま信長と二世迄の入魂につき両方加勢をすけあひ、それ故ふたりけんごなれ共、信長敵は上方十四ヶ国の間にて信長に国とられぬをもとにして、信長国へとりかけんと存ずる武士一人もなき故かくのごとく次第に大身なる、家康はいつまでも三河一国、遠州三ケ一ならば終には家康·信長被官のやうになりて後祝言は申しつ、信玄公の明日にも目をふさぎ給はゝ信長安堵して、今こそ嫡子の城介殿と同意に思ふとて、三ツの桃を一ツ送る共、强敵·大敵の六ケ敷信玄公御座なくば家康を信長ころし候はん、それに大事なくば家康果報の儀、少々のかんがへには成りかね申さんと高坂がいへば、馬塲美濃大誓文をたて我等もそれなりと云ふ、内藤修理も同誓文にて右の通りなり一或時小笠原慶安斎へ宿老衆振舞によりあふて、
現代語訳
家康はいま信長と二世までの入魂につき、両方が加勢を助け合い、それゆえ二人とも堅固であるけれども、信長の敵は上方十四か国のあいだで信長に国を取られまいというのを本にしていて、信長の国へ手をかけようと存ずる武士は一人もないゆえに、このように次第に大身になる。家康はいつまでも三河一国、遠州の三分の一ならば、ついには家康は信長の被官のようになって、後の祝言は申したものの、信玄公が明日にも目を塞がれたなら信長は安堵して、今こそ嫡子の城介殿と同意に思うといって三つの桃を一つ送っても、強敵・大敵の難しい信玄公がおられなければ、家康を信長は殺し候おう。それに大事がなければ、家康の果報の儀は少々の考えには成りかね申そうと高坂が言えば、馬場美濃は大誓文を立てて我らもそれであると言う。内藤修理も同じく誓文で右のとおりである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『甲陽軍鑑』品第四十今明年の間に右の家康と一戦なうてかなふまじ、さあるに付ては信長も後をかんがへ、今こそ当家と縁辺の無事なり共、家康へ信長加勢あらば両家を相手になされ、信玄公合戦をとげられ、都までほまれのためなれば、是には猶以て軍法のいる所なりと穴山殿に馬塲美濃守申きかす也穴山伊豆守殿馬塲美濃守に又とはるゝ、
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『甲陽軍鑑』品第四十信長尾張一国ならば互に尾張·三河にてみかたとばかり申すべく候へ共、信長国数をとり大身に成に付、家康は一国にて無事なれば、一国の方をはたしたと云ふ、かやうの事も生れ替りの家にてはわかき衆其たてわけをしらねば、武士道無案内のやうに候と小宮山内膳·小山田彥三郎両人に、もろが入道がゝへたるを高坂弾正聞き候て、くどけれども紙面にあらはし、わかき衆にせんさくよくなされよとの儀なり、
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『甲陽軍鑑』品第四十もろ〳〵のさかひめ、侍大将衆へ近国·他国の大将の行儀·作法·仕形·聞出し次第·善悪共に一ッ書にて言上いたせとあるに付、或年遠州いぬい天野宮内右衛門と申す侍大将の所より進上仕る書付に、美濃の岐阜織田信長へまはり一尺の桃三ツなりたるを枝折りに仕り、霜月中の十日にあげつれば、信長指し引きのさへたる名大将にて、うへはことをやぶりても、内心には時により一段ねれたる事の多き武士にてましませば、右の桃を大きに心いはひして、一ツは信長きこしめし、又一ツは嫡子城之助信忠へ参らせられ、三ツめをば遠州浜松徳川家康公へ送り給ふ、
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『甲陽軍鑑』品第三十九扨信長·家康は互にあなたをすけ、こなたをすけ、利運に互に仕り、すでにもつて信長はまきたる城をまきほぐし、味方を捨、退口あらき事数度あり、然も一向坊主などを敵にして、家康なくば成間敷候、本より家康は少身なる若気也、又奥両国にも輝虎ほどなる大将なし、四国·九国にも毛利元就程なるはなし、日本国中に右の大将衆程の誉れの侍、今は大唐にもなきと聞ゆる、然所に信玄手がらは若き時分より他国の大将をたのみ馬を出させ、両旗をもつて弓矢を取たる事一度もなし、まきたる城をまきほぐしたる事一度もなし、味方の城を一ツと敵に取しかれたる事なし、甲州のうちに城墎をかまへ用心する事もなく、屋敷がまへにて罷在、
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『甲陽軍鑑』品第四十家康今年は定めて三十斗りにても有らん、四十に及び殊に大身の信長にいつ位もましの、しまり所ある分別あり、さすがに武士の心ばせなき者ならば、年こばいに相似あはぬとも申さんずるが、三河の国おさむるとて十九歳より廿六歳迄八年の間に粉骨をつくし、せんかうのほまれかたのごとくなれば、海道一番の武士と申しながら日本国にもあまり多くはあるまじ、丹波の赤井·江北の浅井備前守·四国の長宗家部·会津の盛氏若手には此家康ならん、扨時過ぎたる此桃をすてたる分別出世をかんがへて如此、其出世とは年明ば吉事也、此心は馬塲美濃·内藤修理·高坂は定めて合点つかまつるべきとのたまふなり、
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『甲陽軍鑑』品第四十家康よのつねならず恭なく返事を被成、其桃をかくして捨て家康食ひ給ふ事なし、此儀を天野宮内右衛門かき付てあぐる、一ツかき多き中に、是はさせる儀にてなきと存候てこそ、すゑにいかにもそさうに書きたるを信玄公御覧あり、其書付を御手へ取り給ひ、しばらく目をふさぎまし〳〵て後、御眼をひらき宣ふは、