甲陽軍鑑 / 品第四十七
右の增城源八其まゝ置き給へ共、三年目河中島合戰に殊外にげて、をのれが事をば指し置き、剩さへ傍輩のふるや惣ニ一郞と申す者、臆病を仕たると支へ對决有りて終に實否究まらず、鐵火をとれとの事なれども、信玄公仰せ出しに旗本の侍に直に鐵火をとらすれば、下輩なる仕置なれば兩方代を出してとらせよと上意にて、双方より被官をいだし職衆と橫目二十人衆頭四人をさしそへ、八幡宮の庭にて鐵火をとり增城被官取りまくる、信玄公聞し召し去々年長沼兄弟にも心のむさき事を申しかけ、無理なる公事をいたす又今度もかくの分なれば諸侍へ、みごりのためにかり坂をこさせよと仰せ出され、
新字:右の增城源八其まゝ置き給へ共、三年目河中島合戦に殊外にげて、をのれが事をば指し置き、剰さへ傍輩のふるや惣ニ一郎と申す者、臆病を仕たると支へ対決有りて終に実否究まらず、鉄火をとれとの事なれども、信玄公仰せ出しに旗本の侍に直に鉄火をとらすれば、下輩なる仕置なれば両方代を出してとらせよと上意にて、双方より被官をいだし職衆と横目二十人衆頭四人をさしそへ、八幡宮の庭にて鉄火をとり增城被官取りまくる、信玄公聞し召し去々年長沼兄弟にも心のむさき事を申しかけ、無理なる公事をいたす又今度もかくの分なれば諸侍へ、みごりのためにかり坂をこさせよと仰せ出され、
書き下し
右の增城源八其まゝ置き給へ共、三年目河中島合戦に殊外にげて、をのれが事をば指し置き、剰さへ傍輩のふるや惣ニ一郎と申す者、臆病を仕たると支へ対決有りて終に実否究まらず、鉄火をとれとの事なれども、信玄公仰せ出しに旗本の侍に直に鉄火をとらすれば、下輩なる仕置なれば両方代を出してとらせよと上意にて、双方より被官をいだし職衆と横目二十人衆頭四人をさしそへ、八幡宮の庭にて鉄火をとり增城被官取りまくる、信玄公聞し召し去々年長沼兄弟にも心のむさき事を申しかけ、無理なる公事をいたす又今度もかくの分なれば諸侍へ、みごりのためにかり坂をこさせよと仰せ出され、
現代語訳
右の増城源八はそのまま置き給えども、三年目の川中島合戦に殊のほか逃げて、おのれが事をば差し置き、あまつさえ傍輩の古屋惣一郎と申す者が臆病をいたしたと支え、対決あって、ついに実否は究まらず。鉄火を取れとの事であるけれども、信玄公の仰せ出だしに、旗本の侍に直に鉄火を取らすれば下輩なる仕置きであれば、両方が代を出して取らせよと上意にて、双方より被官を出だし、職衆と横目二十人衆頭四人を差し添え、八幡宮の庭にて鉄火を取り、増城の被官が取りまくる。信玄公が聞こし召し、去々年、長沼兄弟にも心のむさき事を申しかけ、無理なる公事をいたす。また今度もこの分であれば諸侍へ。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『甲陽軍鑑』品第四十七よき人はあまり申す事もなけれども、只增城源八が様なる者来りて、さき〳〵へ如此と申しならはす、長助·長八兄弟いかにもさは有るまじ、縦ひ左様に增城源八申さるゝとも其右甲州より信濃へ参られ、すでに熊野の牛王に起請を書ての事なれば、其恩は辱なき子細なる故、五度·六度までは堪忍申すべしとて、長助·長八郎兄弟の者物いはず両人取りあはぬにて、猶以て增城源八郎一類きほふて、增城源八を鬼神の様に取りなす、又長沼長介·長八兄弟にあふては源八少しも余儀なくいたし、かげにてはあしく申す故大きに此事ひろまる、
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『甲陽軍鑑』品第四十七扨て上下の批判に、信玄公御弓矢巳の時にてまします故、かやうにつよき敵討なり、本人の事は申すに及ばず、すけ手四人の人々剛の者共かなと諸人批判なり、親の敵討なれば公儀より崇もましまさず、增城源八·飯室喜蔵·太郎義信公の衆也、長沼長介·同長八·石田長蔵·矢崎新蔵四人は又被官なれ共、此手抦にて信玄公御意をもつて義信公の衆になさるゝ、長沼長介·長八郎を信玄公御覧なさるゝ度に御詞をかけ給ふ、
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『甲陽軍鑑』品第四十七誠に右敵討の時、長助·長八兄弟は手前十分になき故喧嘩にいたしたるかと屋形様おぼしめすならば、跡にて誰もよく申しあげては有るまじ、さありてはかばねのうへの恥辱なり、さて又是は只の事にあらず、侍道の事なれば目安をもつて信玄公の御さばきに仕られ、それにてまけなば、それは両人次第と石田·矢崎·飯室三人長沼兄弟に異見いたす故、
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『甲陽軍鑑』品第四十七翌日仰せ出さるゝは、彼の長沼兄弟両人是に置きなば、わかき者共にて若し增城と又喧嘩など仕ては、おしくおぼしめさるゝ者なれば、隔てゝ後によび給へとて、義信公へ信玄公所望なされ内藤修理に預け給ふ、両人其後西上野みのわにて数度手抦をあらはし、兄は此年みか尻合戦の刻手抦なる討死して、かばねの上までもほまれあり、弟長八郎は猶以て数度おほへ有りて信玄公御證文、後は七ツまで下されて待ち、
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『甲陽軍鑑』品第四十七殊更增城源八義信公おちの人の甥なる故、是への軽薄にするの勘がへもなく、むざと增城源八手抦と申すにより、そこにて長沼兄弟是非とも討果たすべきとは覚悟いたす、右すけて四人の内、石田長蔵·矢崎新九郎·飯室喜蔵三人の申す様に、尤も其の方兄弟道理千万なり、各々諏訪より只何となく帰り候はゞ、髻をはらふべきこと誓紙をいたして、今かやうに源八申さるれば、此三人の者どもをも定めて兄弟の人疑ひ給ふべし、さりながら源八郎と其方両人はたし給はゞ、此三人をも公儀より御せんさくつよからん、又貴殿両人も源八をきりころしてあるならば、
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『甲陽軍鑑』品第四十七其ごとくに柳ノ介も数ケ所の手負ひて弱る故、增城手前へきて一刀被切てころびたらん、さなくして何程の手抦を仕ても、すくる程の近付をそつにおとす事、且は主の用にも立つまじき、孟之反がほごらぬ意地こそ武士の本意なれとて公事は長沼兄弟勝つなり、石田·矢崎·飯室をも一段信玄公よろしく思し召す也、增城源八あしく思し召すといへども、是も大事なくして其公事おはるなり、