甲陽軍鑑 / 品第四十
然ば右の太郞信勝公十一歳の時、小姓衆多き中にて近習友野形部むすこ又一郞と日向源藤齋むすこ傳次と扇切りいたせと太郎殿御意の時、友野又一郞腰にさしたる扇をぬく、日向傳次は手に持ちたる扇を腰にさして、ゆびをたてこむかふ時信勝早みへたるそ、おけ、せぬ扇切に傳次はかちたる事心の逸物なるをほめ給ひ日向に褒美あそばす、
新字:然ば右の太郎信勝公十一歳の時、小姓衆多き中にて近習友野形部むすこ又一郎と日向源藤斎むすこ伝次と扇切りいたせと太郎殿御意の時、友野又一郎腰にさしたる扇をぬく、日向伝次は手に持ちたる扇を腰にさして、ゆびをたてこむかふ時信勝早みへたるそ、おけ、せぬ扇切に伝次はかちたる事心の逸物なるをほめ給ひ日向に褒美あそばす、
書き下し
然ば右の太郎信勝公十一歳の時、小姓衆多き中にて近習友野形部むすこ又一郎と日向源藤斎むすこ伝次と扇切りいたせと太郎殿御意の時、友野又一郎腰にさしたる扇をぬく、日向伝次は手に持ちたる扇を腰にさして、ゆびをたてこむかふ時信勝早みへたるそ、おけ、せぬ扇切に伝次はかちたる事心の逸物なるをほめ給ひ日向に褒美あそばす、
現代語訳
しからば、右の太郎信勝公が十一歳の時、小姓衆の多い中で、近習の友野形部の息子又一郎と、日向源藤斎の息子伝次と、扇切りをいたせと太郎殿の御意の時、友野又一郎は腰に差した扇を抜く。日向伝次は手に持った扇を腰に差して、指を立てて向かう時、信勝が、早く見えたぞ、置け、と。しない扇切りに伝次が勝ったこと、心の逸物であるのを褒め給い、日向に褒美をあそばす。
解説
扇を刀に見立てて勝負せよと言われ、一人はすでに手にある扇をそのまま抜き、一人はわざわざ腰に差し直してから構えた。勝負が始まる前に十一歳の信勝が勝敗を見て取り、やらせずに止めて褒美を与える。手を動かす前の心の置き所を見ている。手を動かす前の心の置き所を見ている。すでに手にある扇をそのまま抜いた側と、腰に差し直してから構えた側で、勝敗が先に決まっていた。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
扇切り信勝心構え褒美見抜く
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