甲陽軍鑑 / 品第四十七
跡にて備中を地の侍に村上殿加勢、人數うちそふて二三日せめつれども、五十騎ばかりの人數にて城を終にもちかため、やがて御旗を出され城をまきたる人數を、雜兵ども九百十三人うちとり給ふ、海尻合戰と申は是なりときく、其時備中をなのめならず御褒美にて、武篇·分別共に達したるとて其後御手に入ほどの城々へ、先備中がうつらざるといふ事なし、
新字:跡にて備中を地の侍に村上殿加勢、人数うちそふて二三日せめつれども、五十騎ばかりの人数にて城を終にもちかため、やがて御旗を出され城をまきたる人数を、雑兵ども九百十三人うちとり給ふ、海尻合戦と申は是なりときく、其時備中をなのめならず御褒美にて、武篇·分別共に達したるとて其後御手に入ほどの城々へ、先備中がうつらざるといふ事なし、
書き下し
跡にて備中を地の侍に村上殿加勢、人数うちそふて二三日せめつれども、五十騎ばかりの人数にて城を終にもちかため、やがて御旗を出され城をまきたる人数を、雑兵ども九百十三人うちとり給ふ、海尻合戦と申は是なりときく、其時備中をなのめならず御褒美にて、武篇·分別共に達したるとて其後御手に入ほどの城々へ、先備中がうつらざるといふ事なし、
現代語訳
跡にて備中を、地の侍に村上殿が加勢し、人数を打ち添えて二三日攻めつれども、五十騎ばかりの人数にて城をついに持ち固め、やがて御旗を出され、城を巻きたる人数を、雑兵ども九百十三人討ち取り給う。海尻合戦と申すはこれなりと聞く。その時、備中を斜めならず御褒美にて、武篇・分別ともに達したるとて、その後、御手に入るほどの城々へ、まず備中が移らざるという事なし。
解説

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『甲陽軍鑑』品第十二此節内藤修理正·原隼人佐·跡部大炊助·此衆脇備へ後備への衆にて有りつるが、信玄公上意を承はりて味方の勢敵をうつとて散りたる人数をあつめ、川向或は川中にも備へを立て、敵の様子かからずし追打てのくを見届け候て、今の甘数近江守を追ひ懸け、東道四十四里を射討らにいたす、敵二方へ敗軍なれば此筋はさい河追ひどめなり、件の甘数近江守川を越す時は、只十三人にうちなされ、さい河を越し、敗軍の勢を二三百揃へ、さい河のあなたのはたに一両日逗留す、合戦有て十日斗は彼甘数を輝虎旗本なりとさたも有つるぞ、
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