甲陽軍鑑 / 品第四十一
岐阜の信長は未だ手あひしかとみへざる子細は、申の極月信長とは御無事きれて、酉の三月中旬にはじめて信長持の國東美濃へ取懸、岩村の城を信玄公御先衆に四郞殿·典厩·穴山三人を警固としてせめ給ふ時、信長一万ばかりの人數にて大物見に出る、馬塲美濃守八百の備へにてかこるを見て、岩村の落城にもかまはず信長早々引入て、岩村きりが城を信玄公へ取給ふ其右十日の間に東美濃かんの大寺まで信玄公御手に入候といへども信長終に出あはず候事、
新字:岐阜の信長は未だ手あひしかとみへざる子細は、申の極月信長とは御無事きれて、酉の三月中旬にはじめて信長持の国東美濃へ取懸、岩村の城を信玄公御先衆に四郎殿·典厩·穴山三人を警固としてせめ給ふ時、信長一万ばかりの人数にて大物見に出る、馬塲美濃守八百の備へにてかこるを見て、岩村の落城にもかまはず信長早々引入て、岩村きりが城を信玄公へ取給ふ其右十日の間に東美濃かんの大寺まで信玄公御手に入候といへども信長終に出あはず候事、
書き下し
岐阜の信長は未だ手あひしかとみへざる子細は、申の極月信長とは御無事きれて、酉の三月中旬にはじめて信長持の国東美濃へ取懸、岩村の城を信玄公御先衆に四郎殿·典厩·穴山三人を警固としてせめ給ふ時、信長一万ばかりの人数にて大物見に出る、馬塲美濃守八百の備へにてかこるを見て、岩村の落城にもかまはず信長早々引入て、岩村きりが城を信玄公へ取給ふ其右十日の間に東美濃かんの大寺まで信玄公御手に入候といへども信長終に出あはず候事、
現代語訳
岐阜の信長は、いまだ手合いがしかと見えない。その子細は、申の極月に信長とは御無事が切れて、酉の三月中旬に初めて信長持ちの国、東美濃へ取り掛かり、岩村の城を信玄公の御先衆に四郎殿・典厩・穴山の三人を警固として攻め給う時、信長は一万ばかりの人数で大物見に出る。馬場美濃守が八百の備えで囲うのを見て、岩村の落城にも構わず信長は早々に引き入って、岩村と切りが城を信玄公へ取り給う。その右、十日の間に東美濃の神の大寺まで信玄公の御手に入り候といえども、信長はついに出会わず候事。
解説
この章句が説くこと
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人物志・自序其の安んずる所を察し、其の由る所を觀て、以て居止の行を知る。
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