甲陽軍鑑 / 品第四十
是を高坂彈正聞ていはく、此御曹司太郞信勝は近代の名人の大將衆安藝の元就·北條氏康·北越の輝虎·尾州信長·三州の家康·祖父信玄公おさな立に相似たる信勝にてましませばと、只今武田の家萬事まつりごとみだりになり、去々年長篠にて勝賴公御分別相違故、長坂長閑·跡部大炊助兩人のいさめをもつて信玄公取立の衆盡く討死候て猶家風あしくなり、終に武田の滅却に付ては太郞信勝公のよき生れつきもいらず、むなしく相果て給はんと高坂なみだをながすばかりなり、
新字:是を高坂弾正聞ていはく、此御曹司太郎信勝は近代の名人の大将衆安芸の元就·北条氏康·北越の輝虎·尾州信長·三州の家康·祖父信玄公おさな立に相似たる信勝にてましませばと、只今武田の家万事まつりごとみだりになり、去々年長篠にて勝頼公御分別相違故、長坂長閑·跡部大炊助両人のいさめをもつて信玄公取立の衆尽く討死候て猶家風あしくなり、終に武田の滅却に付ては太郎信勝公のよき生れつきもいらず、むなしく相果て給はんと高坂なみだをながすばかりなり、
書き下し
是を高坂弾正聞ていはく、此御曹司太郎信勝は近代の名人の大将衆安芸の元就·北条氏康·北越の輝虎·尾州信長·三州の家康·祖父信玄公おさな立に相似たる信勝にてましませばと、只今武田の家万事まつりごとみだりになり、去々年長篠にて勝頼公御分別相違故、長坂長閑·跡部大炊助両人のいさめをもつて信玄公取立の衆尽く討死候て猶家風あしくなり、終に武田の滅却に付ては太郎信勝公のよき生れつきもいらず、むなしく相果て給はんと高坂なみだをながすばかりなり、
現代語訳
これを高坂弾正が聞いて言うには、この御曹司の太郎信勝は、近代の名人の大将衆、安芸の元就・北条氏康・北越の輝虎・尾州の信長・三州の家康・祖父の信玄公の幼立ちに相似た信勝でおられればと。ただ今、武田の家は万事の政が乱りになり、去々年、長篠にて勝頼公の御分別が相違のゆえ、長坂長閑・跡部大炊助の両人の諫めをもって信玄公取り立ての衆がことごとく討死候って、なお家風が悪くなり、ついに武田の滅却に付いては、太郎信勝公のよき生まれつきも要らず、空しく相果て給わんと、高坂は涙を流すばかりである。
解説
この章句が説くこと
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『甲陽軍鑑』品第四十今信玄の仕置城介殿·三助殿信長に相似て如形の若き衆たちにても信長死後にはあぶなし、と高坂弾正が真田安房守にをしへて信長公の御うはさを申いたし候、
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『甲陽軍鑑』品第四十信長の仕置今はまづあやうし、子細は内の衆に大国をくれて国主に各を仕らるゝ、其中に名人のなき事は有るまじ、さありて明日にも信長病死ならば、子息城介殿二代の大身なる故、何としてもよろづこまかに有るまじ、又仕出での侍は何事もめいさいなれば、本からの大身と仕出での大身とくらぶれば、一ツ時代には仕出での方かつ物にて候、さなくして信長仕置さへよくば嫡子城介信忠も舎弟伊勢国司に定めらるゝ三助も、殊の外能くむまれつきたる大将ときこへ候間少しも子細なく、信長死後にもおさまり候はんと高坂弾正が真田安房守にいひをしゆるなり、
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『甲陽軍鑑』品第四十一真田源太左衛門·同兵部介長篠にて討死の後、弟武藤喜兵衛に兄の跡を勝頼公下され真田安房守と申す、此安房守或時高坂弾正に問ふ、信長長篠におひて当屋形勝頼公にかち、其勢をもつて越前の朝倉伊勢国司名をたやす、さありて四国·西国·関東奥までも末にはおさめん事去年長篠合戦に信長勝利を得て一入如此、然れ共信長只今の仕置頼朝·北条家或は尊氏などのやうに代替り迄無事に候て、末代迄も人の沙汰するほど信長仕置も可在之と高坂弾正殿見給ひ候哉、願はくは此批判被成候へと真田安房守いへば弾正いはく、
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『甲陽軍鑑』品第四十一永禄十丁卯年に太郎義信自害まし〳〵て後は、信玄公跡をつぎなさるべき惣領御座なし、然れ共又其年誕生ある四郎勝頼公嫡子を信玄公養子に被成吉田左近助を以て御使として御曹司を太郎信勝と名付け参らせられ、武田の重代行平の御太刀·左文字の御腰物をゆづり、武田廿八代目と相定めらるゝ、子細は四郎勝頼公母は諏訪の頼茂のむすめ、勝頼公御前は美濃国岩村殿とて織田信長姨の息女也、四郎が父は苟も信玄なれば、いづかたへたよりても是は然るべしとあるの儀にて、信玄公の跡目にと今の御曹子を有之さありて此太郎信勝七歳にて信玄公にはなれまいらせられ候間、信勝廿一歳迄十五年の間父勝頼公に陣代と有る事也、
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『甲陽軍鑑』品第三十九毛利元就中国を大形治め、四国·九国まで威をふるひ、元就におぢてしたはのように仕るといへども、信長を聞き及び四郎と云ふ子を信長へ奉公にやるべきと支度仕たると聞き、扨又長尾謙信輝虎は武勇をもつて日本へ名を発し、上杉管領に経あがり候処に、某信玄に負、すでに我等家の侍大将高坂弾正に申付、信玄馬の出てざるに、弾正ばかりをもつて越後の内へ度々はたらき候へば、越後より甲州の内へはたらくべき事は夢にも不存、此比は信州の内さへ然々と出たる事なし、其上越中において大将なき者共に相逢てをくれを取、敵におしつけをみせ、尤翌年に仕りかへし加賀の尾山までおし付たるとあれ共、先謙信も負たる事数度あり、
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『甲陽軍鑑』品第三十九跡の儀は四郎むすこ信勝十六歳の時家督なり、其間は陣代を四郎勝頼と申付候、但し武田の旗はもたする事無用なり、まして我そんしのはた·将軍地蔵の旗·八幡大菩薩の小旗、何も一せつ持すべからず、太郎信勝十六歳にて家督、初陣孫子の時尊師の旗斗り残し、よの旗は何も出すべきなり、