甲陽軍鑑 / 品第四十
去程に信玄が此わずらひかように後まで平愈候て、三年の內に都へ上り參內をとげ、勅命をもつて都の意見仕らば天下に信玄がゐではあやうし、又都あたりに內の者大身をおくもあやうし、山城の內には禁中への恐れに城はなく、屋數がまへをよくして、其屋敷まもりに逍遙軒をさしをき、
新字:去程に信玄が此わずらひかように後まで平愈候て、三年の内に都へ上り参内をとげ、勅命をもつて都の意見仕らば天下に信玄がゐではあやうし、又都あたりに内の者大身をおくもあやうし、山城の内には禁中への恐れに城はなく、屋数がまへをよくして、其屋敷まもりに逍遥軒をさしをき、
書き下し
去程に信玄が此わずらひかように後まで平愈候て、三年の内に都へ上り参内をとげ、勅命をもつて都の意見仕らば天下に信玄がゐではあやうし、又都あたりに内の者大身をおくもあやうし、山城の内には禁中への恐れに城はなく、屋数がまへをよくして、其屋敷まもりに逍遥軒をさしをき、
現代語訳
さるほどに、信玄がこの煩いがこのように後まで平癒候って、三年の内に都へ上り参内を遂げ、勅命をもって都の意見をいたさば、天下に信玄が居ないのは危うい。また、都あたりに内の者の大身を置くのも危うい。山城の内には禁中への恐れに城はなく、屋敷構えをよくして、その屋敷守りに逍遥軒を差し置き。
解説
自分が都にいなければ危ういと言い、同時に家中の大身を都に置くのも危ういと言う。中心の近くに力のある者を置かないという配りである。都には城を築かず屋敷構えにとどめる理由が、禁中への恐れだとされている。中心の近くに力のある者を置かないという配りである。都には城を築かず屋敷構えにとどめる理由も、禁中への恐れだと説明されている。
この章句が説くこと
都参内大身禁中屋敷配置
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