甲陽軍鑑 / 品第四十七
以上長沼長助·長八親の敵討事付增城源八郎と同長助·長八公事之事一永祿元年戊午に公事あがる濫觴を尋ぬるに、甲州西郡今諏訪と云所に長沼長右衞門とて元は板垣譜代ずじ也、此者用有りて信濃へ行き、其比は信濃國未だ武田の御手に不入、又信州座光寺被官に靑柳柳之介·同綠之介と申兄弟の者、樣子何としてやらん今の長沼長右衞門を殺所に長右衞門が子に長沼長介長八とて兩人あり、此兄弟に母が申しをしへてあればこそ、一度親の敵をうたんとたくみ年月積り、兄は廿一弟は二十歲の春、思ひ立ち信州へ罷越し、親の敵をうたんとて諏訪や塩尻のあたりに宿をとり、しのびまはりて目をつけ出たる所をうたんと、百日あまり信濃に逗留する、
新字:以上長沼長助·長八親の敵討事付增城源八郎と同長助·長八公事之事一永禄元年戊午に公事あがる濫觴を尋ぬるに、甲州西郡今諏訪と云所に長沼長右衛門とて元は板垣譜代ずじ也、此者用有りて信濃へ行き、其比は信濃国未だ武田の御手に不入、又信州座光寺被官に青柳柳之介·同綠之介と申兄弟の者、様子何としてやらん今の長沼長右衛門を殺所に長右衛門が子に長沼長介長八とて両人あり、此兄弟に母が申しをしへてあればこそ、一度親の敵をうたんとたくみ年月積り、兄は廿一弟は二十歳の春、思ひ立ち信州へ罷越し、親の敵をうたんとて諏訪や塩尻のあたりに宿をとり、しのびまはりて目をつけ出たる所をうたんと、百日あまり信濃に逗留する、
書き下し
以上長沼長助·長八親の敵討事付增城源八郎と同長助·長八公事之事一永禄元年戊午に公事あがる濫觴を尋ぬるに、甲州西郡今諏訪と云所に長沼長右衛門とて元は板垣譜代ずじ也、此者用有りて信濃へ行き、其比は信濃国未だ武田の御手に不入、又信州座光寺被官に青柳柳之介·同綠之介と申兄弟の者、様子何としてやらん今の長沼長右衛門を殺所に長右衛門が子に長沼長介長八とて両人あり、此兄弟に母が申しをしへてあればこそ、一度親の敵をうたんとたくみ年月積り、兄は廿一弟は二十歳の春、思ひ立ち信州へ罷越し、親の敵をうたんとて諏訪や塩尻のあたりに宿をとり、しのびまはりて目をつけ出たる所をうたんと、百日あまり信濃に逗留する、
現代語訳
以上。長沼長助・長八の親の敵討ちの事、付けたり、増城源八郎と同じく長助・長八の公事の事。一、永禄元年戊午に公事が上がる。濫觴を尋ぬるに、甲州西郡の今諏訪という所に長沼長右衛門とて、元は板垣譜代の筋である。この者が用があって信濃へ行き、その頃は信濃国はいまだ武田の御手に入らず。また信州座光寺の被官に青柳柳之介・同緑之介と申す兄弟の者が、様子は何としてやらん、いまの長沼長右衛門を殺す。ところに長右衛門の子に長沼長介・長八とて両人がある。この兄弟に母が申し教えてあればこそ、一度、親の敵を討たんと企み、年月が積り、兄は二十一、弟は二十歳の春、思い立って信州へ罷り越し、親の敵を討たんとて諏訪や塩尻のあたりに宿を取り、忍び回りて目を付け、出たる所を討たんと、百日あまり信濃に逗留する。
解説
この章句が説くこと
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司馬法・嚴位凡そ戦の道は、位は厳ならんことを欲し、政は栗(りつ)ならんことを欲し、力は窕(ゆとり)あらんことを欲し、気は閑(しずか)ならんことを欲し、心は一ならんことを欲す。
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うひ山ぶみ・第六段まことに然あるべきことにて、その学のしなを正し、まなびやうの法をも正して、ゆくさきよこさまなるあしき方に落チざるやう、又其業のはやく成るべきやう、すべて功多かるべきやうを、はじめよりよくしたゝめて、入らまほしきわざ也、
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孫子・形篇是の故に勝兵はまず勝ちて後に戦い、敗兵はまず戦いて後に勝ちを求む。
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司馬法・定爵教えは惟(こ)れ豫(あらかじ)め、戦いは惟れ節(せつ)。
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李衛公問対・卷上《孫子》に謂う、『多筭は少筭に勝つ』と。以て少筭の無筭に勝つを知る有り。凡そ事皆な然り。
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孫子・虚実篇孫子曰く、凡そ先に戦地に処して敵を待つ者は佚く、後に戦地に処して戦いに趨く者は労す。