甲陽軍鑑 / 品第四十八
其跡にて圓藏院遠行なり、かの院老耄故か無智の弟子なれども、善万坊其時四十七八なれば尤年よはひよしとて其寺をゆづるとある手形をやる、弟弟子は其比二十五六歲なれども久敷便宜なければ死たるも知らずとある事にて兼々約束のちがふたるも少は道理なり、さる間弟々子の琳切、大方我宗の學問仕よせ更級へ歸り兄弟子の善万坊と、公事を申せども、下にてすまざる仔細は弟子兄善万坊申儀、其上師匠遠行の後、寺退轉の所を建立仕つるうへはいかに我等無智の僧なりとも此寺の儀はそれがしまゝに仕べし、琳切にぜん〳〵約束なりといふ共、前判を破る後判とあればかた〳〵もつて此寺は此僧が寺なりと、無智の善萬坊か申分是なり、
新字:其跡にて円蔵院遠行なり、かの院老耄故か無智の弟子なれども、善万坊其時四十七八なれば尤年よはひよしとて其寺をゆづるとある手形をやる、弟弟子は其比二十五六歳なれども久敷便宜なければ死たるも知らずとある事にて兼々約束のちがふたるも少は道理なり、さる間弟々子の琳切、大方我宗の学問仕よせ更級へ帰り兄弟子の善万坊と、公事を申せども、下にてすまざる仔細は弟子兄善万坊申儀、其上師匠遠行の後、寺退転の所を建立仕つるうへはいかに我等無智の僧なりとも此寺の儀はそれがしまゝに仕べし、琳切にぜん〳〵約束なりといふ共、前判を破る後判とあればかた〳〵もつて此寺は此僧が寺なりと、無智の善万坊か申分是なり、
書き下し
其跡にて円蔵院遠行なり、かの院老耄故か無智の弟子なれども、善万坊其時四十七八なれば尤年よはひよしとて其寺をゆづるとある手形をやる、弟弟子は其比二十五六歳なれども久敷便宜なければ死たるも知らずとある事にて兼々約束のちがふたるも少は道理なり、さる間弟々子の琳切、大方我宗の学問仕よせ更級へ帰り兄弟子の善万坊と、公事を申せども、下にてすまざる仔細は弟子兄善万坊申儀、其上師匠遠行の後、寺退転の所を建立仕つるうへはいかに我等無智の僧なりとも此寺の儀はそれがしまゝに仕べし、琳切にぜん〳〵約束なりといふ共、前判を破る後判とあればかた〳〵もつて此寺は此僧が寺なりと、無智の善万坊か申分是なり、
現代語訳
その跡にて円蔵院が遠行なり。かの院は老耄のゆえか、無智の弟子であれども善万坊はその時四十七八なれば、もっとも年齢がよしとて、その寺を譲るとある手形をやる。弟弟子はその頃二十五六歳であれども、久しく便宜なければ死したるも知らずとある事にて、兼々の約束の違うたるも少しは道理なり。さるあいだ、弟弟子の琳切が大方我が宗の学問を仕り寄せ更級へ帰り、兄弟子の善万坊と公事を申せども、下にて済まざる子細は、弟子兄の善万坊が申す儀。その上、師匠遠行の後、寺の退転の所を建立仕りつるうえは、いかに我らが無智の僧なりとも、この寺の儀はそれがしままに仕るべし。琳切に前々の約束なりと言うとも、前判を破る後判とあれば、方々もってこの寺はこの僧が寺なりと、無智の善万坊が申し分はこれなり。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『甲陽軍鑑』品第四十八扨又琳切申は師匠死去の後、寺退転の建立は尤なれとも此琳切が近所に罷在、其方に跡を取おかせ、よき時分に寺をとらんと申さば何と連々師匠の約束にても寺とらんとは申にくき儀なれ共大和国へ参候へば何をも存ぜず候、其上此琳切が遠国へ参るも遊山にてはなし一宗の立派をも少は存て、出家道をたて此寺になをらんと思ふは人間まよひの塵埃なり、学問の真似をも仕るはほんかうじやうにゐる事、存命の間はいかに出家にても各如此又前判を破る後判とある、是は尤の事なれど、我等遠国へ参り十ヶ年に及び便宜なき故死したると師匠も思ひ給へばこそ、其方へ手形を渡され候へ我等いきて有儀を知給はゞ円蔵院をいかで其方へゆづり給ふへき、それは我等死したると思ひての事なり、いくよりも申如く我等学問の儀仕候て師匠の死に目にあはぬ内の儀、一ツも役にたち申まじきと云ふ儀にて甲府へまいりめやすをあげ、
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『甲陽軍鑑』品第四十八御蔵のまへにて弟子あに善万坊、弟子おとうと琳切両僧の公事有そのとき甲府の四奉行は、今井伊勢守·武藤三河守·桜井安芸守·今福浄閑さばきなり、四奉行一二三四の図とりにて今福浄閑一くじなるゆへ浄閑申さるゝは、おとうと弟子琳切が理なれば、此寺は弟でしの寺に仕候へ無智の僧いやと申さば寺を引出し縦へば還俗なりともくるしからず候とさばく、二のゝは桜井安芸守なれば桜井申さるゝ、いかに無智の僧成とも出家をさやうにあらくあてがふては慈悲結縁かくるなりとさばく、
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『甲陽軍鑑』品第四十八弟子兄の寺建立の儀僧俗ともにわが居所を似あはしく取つくろひ候事、珍しからぬ事に候へば建立は我首のぬれぬ為にてこゝへは出あはぬ儀なり、然れば円蔵院末期の手形を善万坊取たるよし、それなくは又是ほど公事にはならぬなり、尤末期の手形にては琳切方へ前々の約束も破るべし、其上、学問相承の事は、仔細はむかしを伝へ聞くに、
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『甲陽軍鑑』品第四十八縦へば檜木にて木履を一足造りて人にやれば足にはきていかようなる所をもありくぞ、又其木のきれにて仏を作りて人にあたふれば押板の上へあげ香花をもりて拝するぞ、其ごとくにいかにして兄弟子成共無学の僧をば師匠が馬をひかせて、さて弟子弟なり共学問の有をば師匠も執する者なり、其方善万坊は四五ヶ年も此寺に住してはや六十に及に付ては、隠居して三十にならぬ琳切に跡をゆつり候へ琳切も弟子兄無智の儈なりとも、兄弟子の事なれば老たるをうやまひ、師匠の形見とも存せられ、寺中の家財を三ケ一分し善万坊へあたへ寺のはしに置て念比尤もなり、念比なくば学問のしるしは有まじ、扨又善万坊無学の意地にて弟子をとゝのへ琳切にまけたると口惜く我をたて、悪をはたらき必ず琳切に毒をかひなどあるにおいては勿体なき事ならんと定むると、今井伊勢守さばきにて、信玄公御耳によろしく思召なり、
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『甲陽軍鑑』品第四十八此僧あわてゝ衣のひほを結ぶ男大きにいかり惣別にくしと存るに、如此のもやう共更に聞へぬ事なりと様々口説を申かけ、おさへて坊主を縛りひとつの宗旨の僧達、近郷よりあまたきて重ねての為なりとて、目安書て所のしゆごへあぐれば、乍仮初出家の儀は、私しさばきならずして代官衆の人をそへ甲府の四奉行へあぐる、奉行聞給ひ出家の非におとさんとすれば、何にても證拠なし百姓無理と申さんには様子あやうし、是程少分成義に鉄火或はみたけの鐘と申にもあらず、色々ひはんせらるれ共、奉行四人の分別に不叶して無拠上へ披露いたさるゝ、
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『甲陽軍鑑』品第四十八三鬮は武藤三河守取候へば、三河申さるゝは弟子おとうと学問するも此寺約束故なり、学問にゆきて師匠死に目にあはずして今此寺約束なりとも、その約束はたてまじと申すもことはりなれと弟子兄の師匠末期の約束をたてんと存候、殊に寺建立の事、是も理なれば我等は双方に何も道理ありと存ずとて善悪の分別もなきさばき也、さて四番目は、今井伊勢守さばきに、