甲陽軍鑑 / 品第四十
如件一關東上野國峯の城主小幡上總守は、信玄家へ牢人なるを、信玄公御ほこさきの威勢をもつて上野へ小幡上總本意仕る、此小幡は同國簔輪の城主長野信濃守むこなり、然れば件の信濃守弘治三年丁巳年よりやさしくも信玄公と取りあひ大剛の武士なる故、七年の間楯をつき、永祿六癸亥年に簑輪洛城仕り、長野が一黨を悉く退治あそばす、其後小幡上總を甲府へ召し寄せられ御諚に女房を離別仕候へ、武田御家の譜代衆に緣邊仰合有るべきと原隼人佐·内藤修理正兩使を以ての上意なり、小幡上總畏て御返事申上る、此儀を長野信濃守御誅罰の以前に仰下さるゝに付ては尤上意にまかせ少しも違變申しあぐまじ、
新字:如件一関東上野国峯の城主小幡上総守は、信玄家へ牢人なるを、信玄公御ほこさきの威勢をもつて上野へ小幡上総本意仕る、此小幡は同国簔輪の城主長野信濃守むこなり、然れば件の信濃守弘治三年丁巳年よりやさしくも信玄公と取りあひ大剛の武士なる故、七年の間楯をつき、永禄六癸亥年に簑輪洛城仕り、長野が一党を悉く退治あそばす、其後小幡上総を甲府へ召し寄せられ御諚に女房を離別仕候へ、武田御家の譜代衆に縁辺仰合有るべきと原隼人佐·内藤修理正両使を以ての上意なり、小幡上総畏て御返事申上る、此儀を長野信濃守御誅罰の以前に仰下さるゝに付ては尤上意にまかせ少しも違変申しあぐまじ、
書き下し
如件一関東上野国峯の城主小幡上総守は、信玄家へ牢人なるを、信玄公御ほこさきの威勢をもつて上野へ小幡上総本意仕る、此小幡は同国簔輪の城主長野信濃守むこなり、然れば件の信濃守弘治三年丁巳年よりやさしくも信玄公と取りあひ大剛の武士なる故、七年の間楯をつき、永禄六癸亥年に簑輪洛城仕り、長野が一党を悉く退治あそばす、其後小幡上総を甲府へ召し寄せられ御諚に女房を離別仕候へ、武田御家の譜代衆に縁辺仰合有るべきと原隼人佐·内藤修理正両使を以ての上意なり、小幡上総畏て御返事申上る、此儀を長野信濃守御誅罰の以前に仰下さるゝに付ては尤上意にまかせ少しも違変申しあぐまじ、
現代語訳
関東上野国峰の城主小幡上総守は、信玄家へ牢人していたのを、信玄公の御矛先の威勢をもって上野へ小幡上総が本意を遂げる。この小幡は同国箕輪の城主長野信濃守の婿である。しからば、かの信濃守は弘治三年丁巳の年からやさしくも信玄公と取り合い、大剛の武士であるゆえに七年のあいだ楯をつき、永禄六年癸亥の年に箕輪が落城し、長野の一党をことごとく退治なされる。その後、小幡上総を甲府へ召し寄せられ、御諚に、女房を離別いたし候え、武田御家の譜代衆に縁辺を仰せ合わせられるべきと、原隼人佐・内藤修理正の両使をもっての上意である。小幡上総は畏まって御返事を申し上げる。この儀を、長野信濃守御誅罰の以前に仰せ下されたことについてならば、もっとも上意にまかせ、少しも違変は申し上げまい。
解説

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