甲陽軍鑑 / 品第四十
達磨大師も日本國へわたり給ひ、やまとの國片岡山に乞食のごとくしてまします、臨濟の錄に片岡山下老野狐とあり、げに候、凡人は努々是を存ぜす、聖德太子·達磨大師はいづれも三世をさとる佛のよりあひにて、互に知てこそ右の歌の上に送歷は盾土へ歸り給全書定日日に仁心心時季相應なき故ならん、事長し、あら〳〵と云ふと宣ひて、件の歌は聖德のも達磨のも長ければ、人の會得なるまじきとて、定家卿のみじかう歌二首によみて、人の合點いたすやうにあそばすときこへたり、
新字:達磨大師も日本国へわたり給ひ、やまとの国片岡山に乞食のごとくしてまします、臨済の録に片岡山下老野狐とあり、げに候、凡人は努々是を存ぜす、聖徳太子·達磨大師はいづれも三世をさとる仏のよりあひにて、互に知てこそ右の歌の上に送歴は盾土へ帰り給全書定日日に仁心心時季相応なき故ならん、事長し、あら〳〵と云ふと宣ひて、件の歌は聖徳のも達磨のも長ければ、人の会得なるまじきとて、定家卿のみじかう歌二首によみて、人の合点いたすやうにあそばすときこへたり、
書き下し
達磨大師も日本国へわたり給ひ、やまとの国片岡山に乞食のごとくしてまします、臨済の録に片岡山下老野狐とあり、げに候、凡人は努々是を存ぜす、聖徳太子·達磨大師はいづれも三世をさとる仏のよりあひにて、互に知てこそ右の歌の上に送歴は盾土へ帰り給全書定日日に仁心心時季相応なき故ならん、事長し、あら〳〵と云ふと宣ひて、件の歌は聖徳のも達磨のも長ければ、人の会得なるまじきとて、定家卿のみじかう歌二首によみて、人の合点いたすやうにあそばすときこへたり、
現代語訳
達磨大師も日本国へ渡られ、大和の国の片岡山に乞食のようにしておられる。臨済録に片岡山下の老野狐とあるそうでございます。凡人はまったくこれを存じない。聖徳太子・達磨大師はいずれも三世を悟る仏の寄り合いであって、互いに知ってこそ右の歌の上に、事は長い。あらあらと言うと宣われて、くだんの歌は聖徳のも達磨のも長いので、人が会得できまいといって、定家卿が短い歌二首に詠んで、人が合点いたすように遊ばすと聞こえている。
解説

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『驢鞍橋』卷中師衆に問て曰く、或る長者に人問ふ、幽霊には、迷の者成るか悟の者成るか長老曰く、迷の者なる也。悟の人幽霊に成ると云ふ事なし。彼の者曰く、然らは達磨はなせ片岡山に出て玉ふや。但し迷の人なりや。長老無対師代て曰く、幽霊には念が成る也達磨は日本へ法を弘め度き念ある故に、片岡山に出てたまふ。迷の者は迷た念有り。悟の人は悟た念ありと也。
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『碧巌録』第一則人伝ふ、志公は天監十三年に化し去り、達磨は普通元年に方に来る。自ら七年を隔つ、何が故にか却つて同時に相見ゆと道ふ。此れ必ず是れ謬伝ならん。伝中の載する所に拠る。如今は這の事を論ぜず、只だ他の大綱を知らんことを要す。且く道へ、達磨は是れ観音、志公も是れ観音、阿那箇か是れ端的底の観音。既に是れ観音ならば、什麼と為てか却つて両箇有る。何ぞ止だ両箇のみならん、群を成し隊を作す。時に後魏の光統律師・菩提流支三蔵、師と論議す。師相を斥け心を指す。而るに褊局の量、自ら任ふるに堪へず、競ひて害心を起し、数ば毒薬を加ふ。第六度に至つて、化縁已に畢り、法を伝へて人を得たれば、遂に復た救はず、端居して逝く。熊耳山の定林寺に葬る。後魏の宋雲、使を奉じて、葱嶺に於て師の手に隻履を携へて往くに遇ふ。武帝追憶して、自ら碑文を撰して云く、「嗟夫、之を見て見ず、之に逢うて逢はず、之に遇うて遇はず、今も古も、之を怨み之を恨む」。復た讃して云く、「心有れば、曠劫にして凡夫に滞り、心無ければ、刹那にして妙覚に登る」。且く道へ、達磨即今什麼の処にか在る。蹉過するも也た知らず。
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『碧巌録』第六十七則双林に向かつて此の身を寄せず、却つて梁土に於いて埃塵を惹く。当時誌公老を得ずんば、也た是れ栖栖として国を去る人ならん。「双林に向かつて此の身を寄せず、却つて梁土に於いて埃塵を惹く」。傅大士は没板歯の老漢と一般に相逢ふ。達磨初めて金陵に到りて武帝に見ゆ。帝問ふ、「如何なるか是れ聖諦第一義」。磨云く、「廓然無聖」。帝云く、「朕に対する者は誰ぞ」。磨云く、「識らず」。帝契はず。遂に江を渡りて魏に至る。武帝挙して誌公に問ふ。公云く、「陛下還た此の人を識るや否や」。帝云く、「識らず」。誌公云く、「此れは是れ観音大士、仏心印を伝ふ」と。帝悔いて、遂に使ひを遣はして去きて取らしめんとす。誌公云く、「道ふこと莫かれ陛下使ひを発して去きて取らしむと。合国の人去くとも、他も亦回らじ」と。
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『碧巌録』第一則達磨他に一刀に截断を与ふ。如今の人多少か錯り会して、却つて去いて精魂を弄し、眼睛を瞠つて云く、「廓然無聖」と。且喜すらくは没交渉。五祖先師嘗て説く、「只だ這の廓然無聖、若し人透得せば、家に帰つて穏坐せん」と。一等に是れ葛藤を打す、妨げず他の与に漆桶を打破することを。達磨就中奇特なり。所以に道ふ、「一句を参得して透れば、千句万句一時に透る」と。自然に坐得断し把得定す。古人道ふ、「粉骨砕身も未だ酬ゆるに足らず、一句了然として百億を超ゆ」と。達磨劈頭に他に一拶を与ふ、多少か漏逗し了れり。帝省せず、却つて人我の見を以ての故に、再び問ふ、「朕に対する者は誰そ」。達磨慈悲忒殺して、又向つて道ふ、「不識」。直に武帝をして眼目定動し、落処を知らざらしむ。是れ何の言説ぞ。這裏に到つては、有事無事、拈じ来れば即ち堪へず。端和尚頌有りて云く、「一箭尋常一鵰を落す、更に一箭を加ふ已に相饒す。直に少室峰前に帰つて坐す、梁主言ふことを休めよ更に去いて招かんと」。復た云く、「誰か招かんと欲す」。帝契はず、遂に潜かに国を出づ。這の老漢只だ懡㦬することを得たり。江を渡りて魏に至る。時に魏の孝明帝位に当る。乃ち此れ北人の種族、姓は拓跋氏、後来方に中国と名づく。達磨彼に至つて、亦た出でて見えず、直に少林に過ぎて、面壁九年、二祖を接得す。彼の方号して壁観婆羅門と為す。
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『甲陽軍鑑』品第四十一或時長禅寺春国和尚の弟子高山和尚登城の刻、毘沙門堂にて信玄公高山和尚に問ひ給ふ、高山は富士と何れ、高山答て云ふ、脚下をみよ、信玄公宣く、仰之弥高、高山云ふ、珍重、
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『碧巌録』第四十七則雪竇善く能く無縫罅の処に於いて、眼目を出だして頌出し、人をして見せしむ。雲門道ふ、「六不収」。雪竇什麼としてか却つて道ふ、「一二三四五六」。直に是れ碧眼の胡僧も也た数へて足らず。所以に道ふ、「只だ老胡の知るを許して、老胡の会するを許さず」。須らく是れ他の屋裏の児孫に還して始めて得べし。適来道ふ、「一言一句、時に応じ節に応ず」。若し透得し去らば、方に道の言句の中に在らざることを知らん。其れ或いは未だ然らずんば、情解を作すことを免れず。五祖老師道ふ、「釈迦牟尼仏は下賤の客作児、庭前の柏樹子、一二三四五」。若し雲門の言句の下に向かつて諦当に見得せば、相次いで這の境界に到らん。「少林謾りに道ふ神光に付すと」。二祖、始め神光と名づく。後来に至るに及んで、又道ふ「天竺に帰る」と。達磨は熊耳山の下に葬らる。時に宋雲、使を奉じて西より帰り、西嶺に在つて達磨の手に隻履を携へて西天に帰り去るを見る。使回つて奏聖す。墳を開けば惟だ遺下せる一隻の履を見るのみ。雪竇道ふ、其の実此の事作麼生か分付せん。既に分付無くんば、「衣を巻いて又説く天竺に帰ると」。且く道へ、什麼としてか此の土に却つて二三有つて、遞相に恁麼に伝へ来たる。這裏妨げず誵訛なることを。也た須らく是れ搆へ得て始めて入作すべし。「天竺茫茫として尋ぬるに処無し、夜来却つて乳峰に対して宿す」。且く道へ、即今什麼の処にか在る。師便ち打つて云く、「瞎」。