甲陽軍鑑 / 品第四十
一高坂が他國の事なれども聞きて爰にかく、家康の內內藤三左衞門と云ふ者傍輩の人くらひ馬はなれたるに、右の三左衛門道にて行きあふて食ひふせらるゝ、馬は力ある物にて、だきころばして、三左衛門旣にくひころさるゝにより、此者しかも兵にて脇指をぬき、馬の航をおしはなす故馬死する、其後三左衞門腹をきらんといひければ、家康申さるゝ、少しもくるしからぬ儀なり、馬牛の頸きるなどゝいふは又各別のとりさたにて有りとて三左衞門身上子細なし、
新字:一高坂が他国の事なれども聞きて爰にかく、家康の内内藤三左衛門と云ふ者傍輩の人くらひ馬はなれたるに、右の三左衛門道にて行きあふて食ひふせらるゝ、馬は力ある物にて、だきころばして、三左衛門旣にくひころさるゝにより、此者しかも兵にて脇指をぬき、馬の航をおしはなす故馬死する、其後三左衛門腹をきらんといひければ、家康申さるゝ、少しもくるしからぬ儀なり、馬牛の頸きるなどゝいふは又各別のとりさたにて有りとて三左衛門身上子細なし、
書き下し
一高坂が他国の事なれども聞きて爰にかく、家康の内内藤三左衛門と云ふ者傍輩の人くらひ馬はなれたるに、右の三左衛門道にて行きあふて食ひふせらるゝ、馬は力ある物にて、だきころばして、三左衛門旣にくひころさるゝにより、此者しかも兵にて脇指をぬき、馬の航をおしはなす故馬死する、其後三左衛門腹をきらんといひければ、家康申さるゝ、少しもくるしからぬ儀なり、馬牛の頸きるなどゝいふは又各別のとりさたにて有りとて三左衛門身上子細なし、
現代語訳
一、高坂が他国の事であるけれども聞いてここに書く。家康の内に内藤三左衛門という者が、傍輩の人食い馬が放れたのに、右の三左衛門が道にて行き合って食い伏せられる。馬は力のある物にて、抱き転ばして、三左衛門はすでに食い殺されるにより、この者はしかも兵にて脇指を抜き、馬の喉を突き放つゆえに馬が死する。その後、三左衛門が腹を切らんと言ったところ、家康が申される。少しも苦しからぬ儀である。馬牛の頸を切るなどと言うのは、また各別の取り沙汰にてありとて、三左衛門の身上は子細なし。
解説
この章句が説くこと
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『甲陽軍鑑』品第四十家康此ほどの国持ちなれども、道理非をわけたる大将故、如此悪き大将ならば馬をころしたるとて三左衛門に腹を切らせん、家康はさなくして赦免の儀国持大将のくはしきせんさく手本是也と存知、高坂弾正が爰に書きしるすなり、
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『甲陽軍鑑』品第四十扨て家康は義元公討死より以降十年内外の国持ちなるが、駿河さかりの作法をおさなくて見きいたる儀ならん、信玄公の奉行衆公事さばく、様子に少し相似たるごとくなり、何にても公事の落着はめづらしき事きかね共、それは昨今の家康国持なる故、各々の感じ給ふことはまだ十年過ぎてもあるまじ、あの若き家康申付る三人の奉行に三様の形義をいひつけたるとみへて、仏かうりき·鬼作左·どちへんなしの天野三兵と浜松にて落書にたてたると聞く、
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『甲陽軍鑑』品第四十右のごとく三河一国持て遠州まで手をかけたる家康を利根と云ふはおろかなり、利口とほむるもすべをしらぬ仰られ様にて候、家康の儀是は日本に若手の甚しき弓取と申者にて候ぞ、必らず穴山殿御心得なされよと馬塲美濃守申せば、穴山伊豆守殿あやまりて、そつじに問たるゆるし給へ馬塲美濃殿とて、其後どつとわらふて、たがひに座敷をたち給ふなり一土屋右衛門尉所へ山県三郎兵衛尉振舞に参らるこは、
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『甲陽軍鑑』品第四十そこにて内藤修理申、それは散々の儀なり、さありては馬を能のらば博労をも上杉家にとめて騎馬の五百騎も千騎も預け給はんが、其分別にてこそ我より少敵の氏康に度々切負給ふは氏康のぶのよきにはあらず、道理がつまりてかくの分也と内藤修理申、
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『甲陽軍鑑』品第四十七其刻広瀨郷左衛門申すは、我等よき馬をもたず、明日城責めあるならば高名にはかまふまじ、今朝城主が乗て出たりし金の馬鎧かけたる馬をとらんとことはり、其ごとく翌日城へおしこみ馬を取り、曲淵も前の日広瀨と一所にて我等は城主の頸をとらんと、諸傍輩のきく所にて板垣信形にことはり、其通り城主を討ち旗本にて諏訪越中が長柄を二本とりて人を十五六人たゝきころばし、其後よき侍を一人頸をねぢきりし、糸のごとくに筋のみへたる頸をもちきたる、
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『甲陽軍鑑』品第四十分別なき者はおそろしき人にてはなきかと宣ふ也一或る時内藤修理に武田典厩問ひ給ふは、奉公人·大小·上下共に付あふて悪き者ありや、願くは修理正批判をきいて、我めしつかふ者其の後学にさせんと有時、内藤修理申は先二人是也、一人はいさかひ数寄の坊主·同座頭にて候子細は、おのこ子の寄合ふて何ぞ様子の時合により雑言あらば、はれ·はられ、きらば双方きりあふ時死たる方をまけと申す、