甲陽軍鑑 / 品第六
其後信長公廿四歲にて是非義元をうたんと心がけ給へ共爰に妨ぐる男あり、戶部新左衞門とてかさ寺の邊を知行する者也、能書才學如形の侍にて渠無二義元に屬し、尾州を義元の國にせんと、二六時中はかるによつて尾州聊の事をも、駿州へ書送る依レ之信長御心安き寵愛の右筆に、彼新左衞門が消息共を多くあつめ、一年餘ならはせらるゝに新左衛門が手跡に不違於此時義元に逆心の狀思のまゝにかきしたゝめ、織田上總守殿へ戶部新左衞門と上書をし、賴もしき侍を商人に出たゝせ駿府へぞこされける、
新字:其後信長公廿四歳にて是非義元をうたんと心がけ給へ共爰に妨ぐる男あり、戸部新左衛門とてかさ寺の辺を知行する者也、能書才学如形の侍にて渠無二義元に属し、尾州を義元の国にせんと、二六時中はかるによつて尾州聊の事をも、駿州へ書送る依レ之信長御心安き寵愛の右筆に、彼新左衛門が消息共を多くあつめ、一年余ならはせらるゝに新左衛門が手跡に不違於此時義元に逆心の状思のまゝにかきしたゝめ、織田上総守殿へ戸部新左衛門と上書をし、頼もしき侍を商人に出たゝせ駿府へぞこされける、
書き下し
其後信長公廿四歳にて是非義元をうたんと心がけ給へ共爰に妨ぐる男あり、戸部新左衛門とてかさ寺の辺を知行する者也、能書才学如形の侍にて渠無二義元に属し、尾州を義元の国にせんと、二六時中はかるによつて尾州聊の事をも、駿州へ書送る依レ之信長御心安き寵愛の右筆に、彼新左衛門が消息共を多くあつめ、一年余ならはせらるゝに新左衛門が手跡に不違於此時義元に逆心の状思のまゝにかきしたゝめ、織田上総守殿へ戸部新左衛門と上書をし、頼もしき侍を商人に出たゝせ駿府へぞこされける、
現代語訳
その後、信長公は二十四歳で、是が非でも義元を討とうと心がけられたけれども、ここに妨げとなる男がいた。戸部新左衛門といって笠寺のあたりを知行する者である。能書で才学もひととおりの侍であって、彼は二心なく義元に属し、尾州を義元の国にしようと、四六時中はかるので、尾州のわずかな事までも駿州へ書き送る。これによって信長は、心安く寵愛する右筆に、あの新左衛門の消息をたくさん集め、一年あまり習わせられたところ、新左衛門の手跡と違わなくなった。この時に、義元へ逆心の状を思うままに書きしたため、織田上総守殿へ、戸部新左衛門と上書きをして、頼もしい侍を商人に仕立てて駿府へ越された。
解説
この章句が説くこと
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呂氏春秋・長攻④趙簡子病み、太子を召して、之に告げて曰く、「我死して已に葬むらば、衰を服して夏屋の山に上り、以て望め。」太子敬みて諾す。簡子死し、已に葬る。衰を服し、大臣を召して之に告げて曰く、「願わくは夏屋に登りて以て望まん。」大臣皆諫めて曰く、「夏屋に登りて以て望むは、是れ游なり。衰を服して以て游ぶは、不可なり。」襄子曰く、「此れ先君の命なり。寡人敢て廢せず。」群臣敬みて諾す。襄子、夏屋に上りて、以て代の俗を望むに、其の樂しみは甚だ美なり。是に於て襄子曰く、「先君必ず此を以て之を教えしなり。」歸るに及びて、代を取る所以を慮かり、乃ち先づ之に善くす。代君色を好む。其の姉を以て之に妻せんと請う。代君許諾す。姉已に往く。代を善みする所以の者は乃ち萬故なり。馬郡は馬に宜し。代君、善馬を以て襄子に奉ず、馬郡盡く。襄子、代君に謁げて、之を觴せんと請う。先づ舞う者をして兵を其の羽中に置かしむること、數百人。先づ大金斗を具う。代君至り、酒酣なり。斗を反して之を擊ち、一成にして、腦、地に塗る。舞う者兵を操りて以て鬭い、盡く其の從者を殺す。因りて代君の車を以て、其の妻を迎う。其の妻遙かに之の状を聞き、笄を磨して以て自ら刺せり。故に趙氏、今に至るまで、刺笄の證と反斗の號と有り。
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戦国策・昭翦與東周惡昭翦東周と悪む、或ひと照翦に謂ひて曰く、「公の為に陰計を画せん」と。照翦曰く、「何ぞや」と。「西周甚だ東周を憎み、嘗て東周をして楚と悪ましめんと欲す。西周必ず賊をして公を賊せしめ、因りて東周なりと宣言せん、西周の王に於けるを以てなり」と。照翦曰く、「善し。吾又東周の己を賊して西周を軽んずるを以てこれを楚に悪しくせんことを恐る」と。遽かに東周と和す。
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『管子』禁藏凡そ天下を有つ者は、情を以て伐つ者は帝たり、事を以て伐つ者は王たり、政を以て伐つ者は霸たり。而して功を謀るに五有り。一に曰く其の愛する所を視て以て其の威を分かつ。一人にして兩心あれば、其の内必ず衰う。臣用いられざれば、其の國危うくす可し。二に曰く其の隂かに憎む所を視る。其の貨賂を厚くすれば、情を得ること深かる可し。身は内にして情は外なれば、其の國知る可し。三に曰く其の淫樂を聽して、以て其の心を廣くす。遺るに竽瑟美人を以てして、以て其の内を塞ぎ、遺るに諂臣文馬を以てして、以て其の外を蔽う。外内蔽塞すれば、以て敗を成す可し。四に曰く必ず深く之に親しみ、典と同生するが如くす。隂かに辯士を内れて其の計を圖らしめ、勇士を内れて其の氣を髙からしめ、他國の人を内れて其の約に倍かしめ、其の使を絶ち、其の意を拂う。是れ必ず士鬭い、兩國相敵し、必ず其の弊に承ず。五に曰く深く其の謀を察す。其の忠臣を謹み、其の使う所を揆り、内をして信ぜざらしめ、離意有らしむ。離氣あれば令する能わず、必ず内自ら賊す。忠臣已に死すれば、故に政奪う可し。此の五つの者は、功を謀るの道なり。
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『甲陽軍鑑』品第六義元運の末にや是を実なりとおほして、彼新左衛門をめすに駿府までまいるに及ばずとて、参州吉田において速に頭をぞはねられける、其四年にあたつて庚申しかも七庚申ある歳の五月信長廿七の御年人数七百斗り、義元公人数二万余りを卒して出給ふ、于時駿河勢所々へ乱坊に散たる隙をうかどひ、味方の真似をして駿河勢に入交る、義元は三河の国の僧と路次のかたはらの松原にて酒盛しておはします所へ、信長伐てかゝり終に義元の頸を取給ふ、此一戦の手柄によつて於日本其名を得給ふ、是とても件の戸部新左衛門存命においては中々可為難儀処に信長公智謀深く陳平張良が項王の使者をはかりしに不異、信長公消息の行は廿四歳の御時也、
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『甲陽軍鑑』品第四十信長国へだち信玄輝虎と終に武篇の参会無之、就中唯今は信長の嫡子城之介殿信玄公御婿にとある縁辺なり、さるに付信長手だてなさるべき敵さのみなし、十二年以前今川義元公と合戦の刻、信長二十七歳にて無類の手抦是なり、其比信長少身にて若ければ、大敵には種々謀ごとありて信長勝利を得給ふなり、謀行の軍法なき弓矢は縦へば下手のあつまりてする能見物のごとし、仕そこなはんと思ひ、見ながらあぶなく候、信長の弓矢も美濃の国と七年の間取合て武功の分別定まるなり、