甲陽軍鑑 / 品第四十
一國斗りにては敵すくなければ名もすくなし、扨又かずの敵にあふて何方にても一代越度なき大將の二代目にては安と大事の二事あり、先つやすきといふは前代の威光を以て後代の大將少しの儀をも四方にて大きにさたする事もあり是れをやすしといはん、扨又少しのあしき儀をも大きう世間にあしうとりなす事是れも大事と云ふ、やす大事の中に、安はまれなるべし、子細は四方へひどきわたる大將の二代目をば、少し斗りのほまれある儀前代よりおとりといふて、ひだちをうつ事ある故、これもつて大事はおほうしてやすきはまれなりと、むろが入道世間の批判これなり、
新字:一国斗りにては敵すくなければ名もすくなし、扨又かずの敵にあふて何方にても一代越度なき大将の二代目にては安と大事の二事あり、先つやすきといふは前代の威光を以て後代の大将少しの儀をも四方にて大きにさたする事もあり是れをやすしといはん、扨又少しのあしき儀をも大きう世間にあしうとりなす事是れも大事と云ふ、やす大事の中に、安はまれなるべし、子細は四方へひどきわたる大将の二代目をば、少し斗りのほまれある儀前代よりおとりといふて、ひだちをうつ事ある故、これもつて大事はおほうしてやすきはまれなりと、むろが入道世間の批判これなり、
書き下し
一国斗りにては敵すくなければ名もすくなし、扨又かずの敵にあふて何方にても一代越度なき大将の二代目にては安と大事の二事あり、先つやすきといふは前代の威光を以て後代の大将少しの儀をも四方にて大きにさたする事もあり是れをやすしといはん、扨又少しのあしき儀をも大きう世間にあしうとりなす事是れも大事と云ふ、やす大事の中に、安はまれなるべし、子細は四方へひどきわたる大将の二代目をば、少し斗りのほまれある儀前代よりおとりといふて、ひだちをうつ事ある故、これもつて大事はおほうしてやすきはまれなりと、むろが入道世間の批判これなり、
現代語訳
一国ばかりでは敵が少ないので名も少ない。さてまた数の敵に逢って、どこにおいても一代のあいだ落ち度のない大将の二代目には、易きと大事の二つの事がある。まず易きというのは、前代の威光をもって、後代の大将の少しの儀をも四方で大きに沙汰する事もある。これを易しと言おう。さてまた少しの悪い儀をも大きく世間で悪く取りなす事、これも大事と言う。易きと大事の中で、易きは稀であろう。子細は、四方へ響き渡る大将の二代目を、少しばかりの誉れのある儀を前代より劣りといって、育ちを打つ事があるゆえに、これをもって大事は多くて易きは稀であると、室が入道の世間の批判がこれである。
解説

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