甲陽軍鑑 / 品第四十
拔出る侍の意地は敵あひ十間·廿間又一町にても勝負のはじまるすこしまへが、おのこの善惡のみゆる所なり、子細は矢·鐵炮のせりあひさかりの事は、廿間·卅間·一町の內にてある、それをちかくよれば鑓の戰なり、然ば一番鑓を一度ほむるも、人のすこまぬにすぐれて拔出る覺悟をこそ、ほまれの鑓下の高名も、右すゝむ人より敵のちかくへよりての勝負成故、一番鑓にさしつどきてほむる、さりながら敵ちかく行共一番鑓におとりたるは其高名と申も、鑓にて敵をおさへてさするいはれを以て右の通りなり、
新字:抜出る侍の意地は敵あひ十間·廿間又一町にても勝負のはじまるすこしまへが、おのこの善悪のみゆる所なり、子細は矢·鉄炮のせりあひさかりの事は、廿間·卅間·一町の内にてある、それをちかくよれば鑓の戦なり、然ば一番鑓を一度ほむるも、人のすこまぬにすぐれて抜出る覚悟をこそ、ほまれの鑓下の高名も、右すゝむ人より敵のちかくへよりての勝負成故、一番鑓にさしつどきてほむる、さりながら敵ちかく行共一番鑓におとりたるは其高名と申も、鑓にて敵をおさへてさするいはれを以て右の通りなり、
書き下し
抜出る侍の意地は敵あひ十間·廿間又一町にても勝負のはじまるすこしまへが、おのこの善悪のみゆる所なり、子細は矢·鉄炮のせりあひさかりの事は、廿間·卅間·一町の内にてある、それをちかくよれば鑓の戦なり、然ば一番鑓を一度ほむるも、人のすこまぬにすぐれて抜出る覚悟をこそ、ほまれの鑓下の高名も、右すゝむ人より敵のちかくへよりての勝負成故、一番鑓にさしつどきてほむる、さりながら敵ちかく行共一番鑓におとりたるは其高名と申も、鑓にて敵をおさへてさするいはれを以て右の通りなり、
現代語訳
抜け出る侍の意地は、敵合い十間・二十間、また一町であっても、勝負の始まる少し前が、男の善悪の見える所である。子細は、矢・鉄砲の競り合いが盛んな事は、二十間・三十間・一町の内である。それを近く寄れば槍の戦いである。しからば一番槍を一度褒めるのも、人が進まないのにすぐれて抜け出る覚悟をこそ褒めるのであり、誉れの槍下の高名も、右の進む人より敵の近くへ寄っての勝負であるゆえに、一番槍に差し続いて褒める。しかしながら、敵近く行っても一番槍に劣ったのは、その高名と申すのも、槍で敵を押さえてさせるいわれをもって右のとおりである。
解説

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