甲陽軍鑑 / 品第四十
左有ては山本勘介も定めてめいわくに思はん、爰を勘介に免じて命をたすくる間、遠き國へまいれとありて改易いたされ、奥州會津へ行き南部下野死をれ候なり、七十騎足輕·旗本·其外方々へわかち、春日左衞門·笠井備後は右南部兩おとなの子なり、已上一或る年武田の一家勝沼五郞殿、
新字:左有ては山本勘介も定めてめいわくに思はん、爰を勘介に免じて命をたすくる間、遠き国へまいれとありて改易いたされ、奥州会津へ行き南部下野死をれ候なり、七十騎足軽·旗本·其外方々へわかち、春日左衛門·笠井備後は右南部両おとなの子なり、已上一或る年武田の一家勝沼五郎殿、
書き下し
左有ては山本勘介も定めてめいわくに思はん、爰を勘介に免じて命をたすくる間、遠き国へまいれとありて改易いたされ、奥州会津へ行き南部下野死をれ候なり、七十騎足軽·旗本·其外方々へわかち、春日左衛門·笠井備後は右南部両おとなの子なり、已上一或る年武田の一家勝沼五郎殿、
現代語訳
そうしては山本勘介もきっと迷惑に思うであろう。ここを勘介に免じて命を助けるあいだ、遠い国へ参れとあって改易され、奥州の会津へ行き、南部下野は死んだのである。七十騎の足軽・旗本その他を方々へ分け、春日左衛門・笠井備後は右の南部の両宿老の子である。以上。
解説
三か条の罪で成敗するはずが、勘介が迷惑に思うだろうといって改易にとどめる。悪口を言われた当人の立場を慮って刑を軽くする、という理由づけが独特である。そして手柄を横取りされていた二人の名が、宿老の子として最後に記される。悪口を言われた当人の立場を慮って刑を軽くする、という理由づけが独特である。横取りされていた二人の名は、宿老の子として記される。
この章句が説くこと
改易勘介情処分南部手柄
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『甲陽軍鑑』品第四十山本勘介入道道鬼の雑談にて如此馬塲美濃守物語なり一南部下野殿改易、信玄公廿八歳の時、山本助介と申大剛の、兵武道の手抦ばかりにあらず兵法上手にて、或る時信州諏訪において南部殿内の者石井藤三郎と云ふ男を南部殿成敗し、はづし切てまはるに、折節勘介其近所に居あたり候座数へ、右の藤三郎きつておしこむ、勘介刀をとりあわせず、そこにしんざつほうのあるを取て向ひうけて組ころばし、縄をかけて南部殿へわたす、少つゝ手三ケ所おい候、手と申程の儀にてもなし、子細は三十日の内に平愈候、
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『甲陽軍鑑』品第四十七折節高坂弾正川中島より甲府へ参候内藤修理と談合いたし、両人にて信玄公へ申上る、金丸平三郎事一段利発に御奉公申たる者にて御不便を加へらるゝ事御尤にて候、しかれば彼かたきの落合彥介を成敗仕頸とり、村井久之丞·荒川新之丞と申者罷帰候のよしにて一人に五百貫づゝ両人に千貫の御知行可被遣の旨何よりもつての御事なり、さりながら先重ねてになさるべく候其子細は山本勘介などにさへ始めは百貫にてめしよせられ候、但し其比は信濃国も漸やう十分一御手にいると申せ共、山本勘介は又尋常の者にあらず、御家へ参りても横田備中·原美濃·小幡山城·多田三八·山本勘介五人に勝れたる足軽大将にて御座候此五人は凡そ日本国にもあまり多くは有まじきと、近国にも人の存知たる者共也、