甲陽軍鑑 / 品第四十七
折節高坂彈正川中島より甲府へ參候內藤修理と談合いたし、兩人にて信玄公へ申上る、金丸平三郞事一段利發に御奉公申たる者にて御不便を加へらるゝ事御尤にて候、しかれば彼かたきの落合彥介を成敗仕頸とり、村井久之丞·荒川新之丞と申者罷歸候のよしにて一人に五百貫づゝ兩人に千貫の御知行可被遣の旨何よりもつての御事なり、さりながら先重ねてになさるべく候其子細は山本勘介などにさへ始めは百貫にてめしよせられ候、但し其比は信濃國も漸やう十分一御手にいると申せ共、山本勘介は又尋常の者にあらず、御家へ參りても横田備中·原美濃·小幡山城·多田三八·山本勘介五人に勝れたる足輕大將にて御座候此五人は凡そ日本國にもあまり多くは有まじきと、近國にも人の存知たる者共也、
新字:折節高坂弾正川中島より甲府へ参候内藤修理と談合いたし、両人にて信玄公へ申上る、金丸平三郎事一段利発に御奉公申たる者にて御不便を加へらるゝ事御尤にて候、しかれば彼かたきの落合彦介を成敗仕頸とり、村井久之丞·荒川新之丞と申者罷帰候のよしにて一人に五百貫づゝ両人に千貫の御知行可被遣の旨何よりもつての御事なり、さりながら先重ねてになさるべく候其子細は山本勘介などにさへ始めは百貫にてめしよせられ候、但し其比は信濃国も漸やう十分一御手にいると申せ共、山本勘介は又尋常の者にあらず、御家へ参りても横田備中·原美濃·小幡山城·多田三八·山本勘介五人に勝れたる足軽大将にて御座候此五人は凡そ日本国にもあまり多くは有まじきと、近国にも人の存知たる者共也、
書き下し
折節高坂弾正川中島より甲府へ参候内藤修理と談合いたし、両人にて信玄公へ申上る、金丸平三郎事一段利発に御奉公申たる者にて御不便を加へらるゝ事御尤にて候、しかれば彼かたきの落合彥介を成敗仕頸とり、村井久之丞·荒川新之丞と申者罷帰候のよしにて一人に五百貫づゝ両人に千貫の御知行可被遣の旨何よりもつての御事なり、さりながら先重ねてになさるべく候其子細は山本勘介などにさへ始めは百貫にてめしよせられ候、但し其比は信濃国も漸やう十分一御手にいると申せ共、山本勘介は又尋常の者にあらず、御家へ参りても横田備中·原美濃·小幡山城·多田三八·山本勘介五人に勝れたる足軽大将にて御座候此五人は凡そ日本国にもあまり多くは有まじきと、近国にも人の存知たる者共也、
現代語訳
折節、高坂弾正が川中島より甲府へ参り候、内藤修理と談合いたし、両人にて信玄公へ申し上ぐる。金丸平三郎の事、一段利発に御奉公申したる者にて御不便を加えらるる事は御もっともにて候。しかれば、かの敵の落合彦助を成敗仕り首を取り、村井久之丞・荒川新之丞と申す者が罷り帰り候のよしにて、一人に五百貫ずつ両人に千貫の御知行を遣わさるべきの旨、何よりもっての御事なり。さりながら、まず重ねてになさるべく候。その子細は、山本勘介などにさえ初めは百貫にて召し寄せられ候。ただし、その頃は信濃国もようよう十分の一が御手に入ると申せども、山本勘介はまた尋常の者にあらず。御家へ参りても、横田備中・原美濃・小幡山城・多田三八・山本勘介の五人に勝れたる足軽大将にて御座候。この五人はおよそ日本国にもあまり多くはあるまじきと、近国にも人の存知たる者どもである。
解説

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