甲陽軍鑑 / 品第四十
扨又一年我等共卅計りの時分信州更科の出家、公事に武藤殿·櫻井殿若き時、今井殿計り宿老今福淨閑中老なるが、四人歳もかたぎも各別なるを、奉行に信玄公仰付けられたる樣子に、此程の家康が少づゝ似たるは不思儀なりと山縣三郞兵衞かたれば、馬塲美濃·内藤·高坂各申さるこは、何樣家康たゞものにてはなしと各いはるこ、
新字:扨又一年我等共卅計りの時分信州更科の出家、公事に武藤殿·桜井殿若き時、今井殿計り宿老今福浄閑中老なるが、四人歳もかたぎも各別なるを、奉行に信玄公仰付けられたる様子に、此程の家康が少づゝ似たるは不思儀なりと山県三郎兵衛かたれば、馬塲美濃·内藤·高坂各申さるこは、何様家康たゞものにてはなしと各いはるこ、
書き下し
扨又一年我等共卅計りの時分信州更科の出家、公事に武藤殿·桜井殿若き時、今井殿計り宿老今福浄閑中老なるが、四人歳もかたぎも各別なるを、奉行に信玄公仰付けられたる様子に、此程の家康が少づゝ似たるは不思儀なりと山県三郎兵衛かたれば、馬塲美濃·内藤·高坂各申さるこは、何様家康たゞものにてはなしと各いはるこ、
現代語訳
さてまた、ある年、我らどもが三十ばかりの時分、信州更級の出家の公事に、武藤殿・桜井殿が若い時、今井殿ばかりが宿老、今福浄閑が中老であるが、四人とも年も気質も各別であるのを奉行に信玄公が仰せ付けられた様子に、このほどの家康が少しずつ似ているのは不思議であると山県三郎兵衛が語れば、馬場美濃・内藤・高坂それぞれが申されるには、何にせよ家康はただ者ではないと、それぞれ言われる。
解説
信玄も同じことをしていた、という照らし合わせ。若い二人、宿老一人、中老一人という年齢も気質も違う四人を一つの裁きに就けた。それに家康のやり方が似ていると気づいて、家中の重臣が口を揃えてただ者ではないと言う。自分の家でも同じことをしていた、という照らし合わせで話が終わる。年齢も気質も違う四人を、一つの裁きに就けたという実例である。
この章句が説くこと
奉行配置年齢気質家康信玄
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『甲陽軍鑑』品第四十家康今年は定めて三十斗りにても有らん、四十に及び殊に大身の信長にいつ位もましの、しまり所ある分別あり、さすがに武士の心ばせなき者ならば、年こばいに相似あはぬとも申さんずるが、三河の国おさむるとて十九歳より廿六歳迄八年の間に粉骨をつくし、せんかうのほまれかたのごとくなれば、海道一番の武士と申しながら日本国にもあまり多くはあるまじ、丹波の赤井·江北の浅井備前守·四国の長宗家部·会津の盛氏若手には此家康ならん、扨時過ぎたる此桃をすてたる分別出世をかんがへて如此、其出世とは年明ば吉事也、此心は馬塲美濃·内藤修理·高坂は定めて合点つかまつるべきとのたまふなり、
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『甲陽軍鑑』品第四十扨て家康は義元公討死より以降十年内外の国持ちなるが、駿河さかりの作法をおさなくて見きいたる儀ならん、信玄公の奉行衆公事さばく、様子に少し相似たるごとくなり、何にても公事の落着はめづらしき事きかね共、それは昨今の家康国持なる故、各々の感じ給ふことはまだ十年過ぎてもあるまじ、あの若き家康申付る三人の奉行に三様の形義をいひつけたるとみへて、仏かうりき·鬼作左·どちへんなしの天野三兵と浜松にて落書にたてたると聞く、
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『甲陽軍鑑』品第四十大将には能々出頭人なり共、傍輩に物云ふやうにならねば殊に一ツ二ツにて、はやえつうあそばす事は国持の専ら也、一入信玄公十八歳よりそれがし廿五歳の時より奉公申奉るに、御わかき時分せんさくなされ、此儀をよそのやうに語給ひて定めらるゝ、今、曽根内匠·真田喜兵衛·三枝勘解由左衛門三人にケ様の定めを仰せきかされてこそ牢人衆の参るに右三人、先其侍を見とどけ、それ〳〵に披露いたすと大方みへまいらせ候と穴山殿に馬塲美濃守をしへまいらするなり、
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『甲陽軍鑑』品第四十我もよりの大略のはたらきを一といひてよき手抦専らにする人をおとりに申者、おのれが身にかけてあしうしなす女侍をも両方善悪共に信玄が書付て置たりと仰られ候、定て其方土屋殿は見給はぬかと山県申さるれば、右衛門尉当年も両度見申候、御家中つよき事浅からず、廿ヶ年こなたへは左様の者一人もなし、信虎の御代に信玄公十六歳よりあそばし置る、卅の御歳迄十五年の間に九人左様のあしき人有て、各よの事によそへて改易なれば、其親類衆へのためにむさと申さず候、若き衆にかたり候はど、やがて彼一類をも女侍のよし贔負也といはど、
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