甲陽軍鑑 / 品第四十
是れは小身なる侍の事、大身の上には一のおほへ大合戰こぜりあひ、二のおぼへ城せめ、第一には人をよく見知、國の仕置見る事になさるゝ事、是は又國半國とも、もつ大將の御手抦是なり、然る間右の家康は十二年以前に十九歳にて尾州大高の覺へ、三河國一の宮の後詰、同かんだいじの合戰、吉良にての合戰、山中の平ぜめ信長すけ、江州あね川合戰偏へに家康武功故信長の勝利と云ふ、同若狹の國にて信長にすてられたる時の家康はたらき、遠州懸川にて今川氏眞をせめて氏眞に降參させ申事、其外三河國において七年に大方七度の合戰有りと聞く、
新字:是れは小身なる侍の事、大身の上には一のおほへ大合戦こぜりあひ、二のおぼへ城せめ、第一には人をよく見知、国の仕置見る事になさるゝ事、是は又国半国とも、もつ大将の御手抦是なり、然る間右の家康は十二年以前に十九歳にて尾州大高の覚へ、三河国一の宮の後詰、同かんだいじの合戦、吉良にての合戦、山中の平ぜめ信長すけ、江州あね川合戦偏へに家康武功故信長の勝利と云ふ、同若狭の国にて信長にすてられたる時の家康はたらき、遠州懸川にて今川氏真をせめて氏真に降参させ申事、其外三河国において七年に大方七度の合戦有りと聞く、
書き下し
是れは小身なる侍の事、大身の上には一のおほへ大合戦こぜりあひ、二のおぼへ城せめ、第一には人をよく見知、国の仕置見る事になさるゝ事、是は又国半国とも、もつ大将の御手抦是なり、然る間右の家康は十二年以前に十九歳にて尾州大高の覚へ、三河国一の宮の後詰、同かんだいじの合戦、吉良にての合戦、山中の平ぜめ信長すけ、江州あね川合戦偏へに家康武功故信長の勝利と云ふ、同若狭の国にて信長にすてられたる時の家康はたらき、遠州懸川にて今川氏真をせめて氏真に降参させ申事、其外三河国において七年に大方七度の合戦有りと聞く、
現代語訳
これは小身である侍の事。大身の上では、一の覚えは大合戦と小競り合い、二の覚えは城攻め、第一には人をよく見知り、国の仕置きを見る事になさる事、これはまた国を、半国とも持つ大将の御手柄がこれである。しかるあいだ、右の家康は十二年前に十九歳で尾州大高の覚え、三河国一の宮の後詰め、同じく寒狭寺の合戦、吉良での合戦、山中の平攻めで信長を助け、江州姉川の合戦は、ひとえに家康の武功ゆえに信長の勝利と言う。同じく若狭の国で信長に捨てられた時の家康の働き、遠州掛川で今川氏真を攻めて氏真に降参させ申す事。そのほか三河国において七年に、おおかた七度の合戦があったと聞く。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『甲陽軍鑑』品第十六右庚申の年より丁卯まで八ヶ年の間に、我生国をおさめ今卅より内廿七歳にて、三河一国の諸侍悉く家康公の被官となる、しかも大高にての時分は家康公十九歳の時なり、其年に当て三州の内一の宮の城に家康内の者、本田百介と云ふ者籠りたるを、氏真公出馬し給ひ、信虎公も御出有り、其時氏真公の人数駿河·遠江·東三河を始め悉く引具し一万八千にてせめ給へども百介こらへて城をあけず其後家康公三千ばかりにて後詰めをし給ひ、駿河勢をおひはらい、家康堅固にしてしばらく城を持ち給ふ、
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『甲陽軍鑑』品第四十稍や有て仰らるゝ、長坂長閑尋べき事あり、三河の国岡崎家康と云ふ若者は当年はいくつばかりの侍ときゝつると尋給ふ、長坂長閑申は、寅の歳にて当年二十五歳と承り及び候、信玄公仰らるゝ、義元討死の時節より当年まで七年なるが、件の家康十九歳より今までに三河国一国をおさめ候に付、しかも彼国日本六十余州にて人のかぞゆる侍の武篇持く国なれば、合戦の儀年に二度はあれ共一度なき事なし、旣に家康或時は浄土寺へ行き知識にあひ、念仏の十念と云ふ物をとり疑がひをきつて、敵三千ばかりを我人数二百の内外にて家康勝利を得たる共きゝつるぞ、
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『甲陽軍鑑』品第四十家康今年は定めて三十斗りにても有らん、四十に及び殊に大身の信長にいつ位もましの、しまり所ある分別あり、さすがに武士の心ばせなき者ならば、年こばいに相似あはぬとも申さんずるが、三河の国おさむるとて十九歳より廿六歳迄八年の間に粉骨をつくし、せんかうのほまれかたのごとくなれば、海道一番の武士と申しながら日本国にもあまり多くはあるまじ、丹波の赤井·江北の浅井備前守·四国の長宗家部·会津の盛氏若手には此家康ならん、扨時過ぎたる此桃をすてたる分別出世をかんがへて如此、其出世とは年明ば吉事也、此心は馬塲美濃·内藤修理·高坂は定めて合点つかまつるべきとのたまふなり、
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『甲陽軍鑑』品第三十九扨信長·家康は互にあなたをすけ、こなたをすけ、利運に互に仕り、すでにもつて信長はまきたる城をまきほぐし、味方を捨、退口あらき事数度あり、然も一向坊主などを敵にして、家康なくば成間敷候、本より家康は少身なる若気也、又奥両国にも輝虎ほどなる大将なし、四国·九国にも毛利元就程なるはなし、日本国中に右の大将衆程の誉れの侍、今は大唐にもなきと聞ゆる、然所に信玄手がらは若き時分より他国の大将をたのみ馬を出させ、両旗をもつて弓矢を取たる事一度もなし、まきたる城をまきほぐしたる事一度もなし、味方の城を一ツと敵に取しかれたる事なし、甲州のうちに城墎をかまへ用心する事もなく、屋敷がまへにて罷在、
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『甲陽軍鑑』品第四十子細は伊豆の宗雲公今川殿へたより、後我手抦にて伊豆·相摸を取、浜松の家康是も今川殿へたより今如此、就中小身成る若者一二度はなしうちの科人をよく切、或は合戦せりあひ、足軽塲にて追頸の一ツ二ツをも、ふりよく取たるをば利口者と云ひさて又右の塲にて鎗をあはする人につゞき鎗下の高名をいたし、此両人につどき鑓わきをつめて、ほまれ有人をば一度·二度·三度まではかひ〳〵しき人と云ふ、右の仕合かさなりて、四番めからは剛の兵とて是をおぼへの者と云ふ、おほへかさなり十度に余るを塲数有て名高き侍をさして大剛の人と云ふ、其人に分別工夫あれば何と小身にても名人と名付る、
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『甲陽軍鑑』品第四十信長尾張一国ならば互に尾張·三河にてみかたとばかり申すべく候へ共、信長国数をとり大身に成に付、家康は一国にて無事なれば、一国の方をはたしたと云ふ、かやうの事も生れ替りの家にてはわかき衆其たてわけをしらねば、武士道無案内のやうに候と小宮山内膳·小山田彥三郎両人に、もろが入道がゝへたるを高坂弾正聞き候て、くどけれども紙面にあらはし、わかき衆にせんさくよくなされよとの儀なり、