甲陽軍鑑 / 品第四十八
能登國へぞ遣られける甲府法花宗の僧公事の事一甲州府中穴山少路に新立寺と申、日蓮宗の寺あり、是に脇寺十四五有、此十四五の中に林生坊·昌沈坊と云ふ坊主、女房を持、是を近所の町人ぬきな加兵衞·玉越杢左衛門兩人にてよくとちの女房迯ぐることならぬ樣に隣の坊主に手形をさせ、扨訴人岩間大藏左衞門方へ告る、又此大藏左衞門訴人と成、謂は數度の臆病を仕る故也、
新字:能登国へぞ遣られける甲府法花宗の僧公事の事一甲州府中穴山少路に新立寺と申、日蓮宗の寺あり、是に脇寺十四五有、此十四五の中に林生坊·昌沈坊と云ふ坊主、女房を持、是を近所の町人ぬきな加兵衛·玉越杢左衛門両人にてよくとちの女房迯ぐることならぬ様に隣の坊主に手形をさせ、扨訴人岩間大蔵左衛門方へ告る、又此大蔵左衛門訴人と成、謂は数度の臆病を仕る故也、
書き下し
能登国へぞ遣られける甲府法花宗の僧公事の事一甲州府中穴山少路に新立寺と申、日蓮宗の寺あり、是に脇寺十四五有、此十四五の中に林生坊·昌沈坊と云ふ坊主、女房を持、是を近所の町人ぬきな加兵衛·玉越杢左衛門両人にてよくとちの女房迯ぐることならぬ様に隣の坊主に手形をさせ、扨訴人岩間大蔵左衛門方へ告る、又此大蔵左衛門訴人と成、謂は数度の臆病を仕る故也、
現代語訳
能登国へぞ遣られける。甲府法花宗の僧の公事の事。一、甲州府中の穴山小路に新立寺と申す日蓮宗の寺あり。これに脇寺が十四五あり。この十四五の中に林生坊・昌沈坊という坊主が女房を持つ。これを近所の町人、ぬきな加兵衛・玉越杢左衛門の両人にて、よくとちの女房が逃ぐる事のならぬように隣の坊主に手形をさせ、さて訴人の岩間大蔵左衛門方へ告ぐる。またこの大蔵左衛門が訴人と成るいわれは、数度の臆病を仕るゆえなり。
解説
妻帯の僧を、町人二人が証拠を固めてから届け出る。届け先は岩間大蔵左衛門という訴人役の侍で、その人がなぜその役に就いたかというと、戦で何度も臆病を働いたからだという。役の由来が、その一言で明かされる。役の由来が、その一言で明かされる。訴人役に就いた侍が、なぜその役なのかというと、戦で何度も臆病を働いたからだと書き留められている。
この章句が説くこと
訴人妻帯手形岩間臆病役
関連する章句
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『甲陽軍鑑』品第四十八こゝに則四奉行穴山少路、新立寺院主の御坊へ書状を付、林生坊·昌沈坊二人の僧を御蔵前へ召寄、扨大蔵左衛門と、ぬき名加兵衛·玉越杢左衛門二人よび引合せて対決さた有て、法華坊主両人ながら負て申様我々計りにて御座なしとて、法花寺の中をかぞへ立いづれの寺にも五人六人候と申、我寺の内よりも十人計り訴人して清僧は二三人ならでなし、新立寺にて脇坊十五間の間にさへ十二人あれば、甲州中には在郷へかけては二百人も科におとすこと今の林生坊昌沈坊公事にてなり、
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『甲陽軍鑑』品第四十八跡部大炊助殿以上信州岩村田法花宗の僧公事の事一信濃国岩村田にいかにも少分成百姓あり、此者男は浄土宗女房は法花宗にて男は女を我宗になさんと云ふ、女は男を法花になり給へと申、何もかたづかず後は此儀に付て夫婦の中悪く成然れは男、父母の為めに一月に両度づゝ浄土の出家を申請れば女房かほさがをなす、女母の為に法花坊主を呼参らすれば男殊の外腹立る、
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