甲陽軍鑑 / 品第四十八
則ち其年九月十日に川中島合戰の時、右の辻彌兵衛よき者をうつて手疵二ケ所かうふる、翌年松山陣の時、山縣三郎兵衛一手にてみのわへはたらく時、日の內に三度せりあひに三度ながら辻彌兵衛首尾を合する山縣下にて鑓をあはせ候者は初めの度、古畑伯耆·小菅五郞兵衞·鑓下の高名は長坂宮内左衛門·早川彌三左衞門·辻彌兵衞、二度目のせりあひに鑓合するは廣瀨郷左衛門·みしな內膳·西卷監物鑓下の高名、辻彌兵衞·和田賀助·渡邊三左衞門右三人目の三左衞門是は山縣被官なり、又三度のせりあひに、鑓は上野豐後·早川彌三左衛門·辻彌兵衛鑓下の高名、猪子才藏·廣瀨郷左衞門·曲淵庄左衞門·此庄左衞門は前兩度のせりあひに兩度ながら人を討、少しづゝ手負候へ共、ぬきんでたる高名なきとて三度めに鑓下の高名也、
新字:則ち其年九月十日に川中島合戦の時、右の辻弥兵衛よき者をうつて手疵二ケ所かうふる、翌年松山陣の時、山県三郎兵衛一手にてみのわへはたらく時、日の内に三度せりあひに三度ながら辻弥兵衛首尾を合する山県下にて鑓をあはせ候者は初めの度、古畑伯耆·小菅五郎兵衛·鑓下の高名は長坂宮内左衛門·早川弥三左衛門·辻弥兵衛、二度目のせりあひに鑓合するは広瀨郷左衛門·みしな内膳·西巻監物鑓下の高名、辻弥兵衛·和田賀助·渡辺三左衛門右三人目の三左衛門是は山県被官なり、又三度のせりあひに、鑓は上野豊後·早川弥三左衛門·辻弥兵衛鑓下の高名、猪子才蔵·広瀨郷左衛門·曲淵庄左衛門·此庄左衛門は前両度のせりあひに両度ながら人を討、少しづゝ手負候へ共、ぬきんでたる高名なきとて三度めに鑓下の高名也、
書き下し
則ち其年九月十日に川中島合戦の時、右の辻弥兵衛よき者をうつて手疵二ケ所かうふる、翌年松山陣の時、山県三郎兵衛一手にてみのわへはたらく時、日の内に三度せりあひに三度ながら辻弥兵衛首尾を合する山県下にて鑓をあはせ候者は初めの度、古畑伯耆·小菅五郎兵衛·鑓下の高名は長坂宮内左衛門·早川弥三左衛門·辻弥兵衛、二度目のせりあひに鑓合するは広瀨郷左衛門·みしな内膳·西巻監物鑓下の高名、辻弥兵衛·和田賀助·渡辺三左衛門右三人目の三左衛門是は山県被官なり、又三度のせりあひに、鑓は上野豊後·早川弥三左衛門·辻弥兵衛鑓下の高名、猪子才蔵·広瀨郷左衛門·曲淵庄左衛門·此庄左衛門は前両度のせりあひに両度ながら人を討、少しづゝ手負候へ共、ぬきんでたる高名なきとて三度めに鑓下の高名也、
現代語訳
すなわちその年九月十日に川中島合戦の時、右の辻弥兵衛はよき者を討って手疵二か所を被る。翌年、松山陣の時、山県三郎兵衛が一手にて箕輪へ働く時、日の内に三度の競り合いに、三度ながら辻弥兵衛は首尾を合わする。山県の下にて鑓を合わせ候者は、初めの度は古畑伯耆・小菅五郎兵衛、鑓下の高名は長坂宮内左衛門・早川弥三左衛門・辻弥兵衛。二度目の競り合いに鑓を合わするは広瀬郷左衛門・三品内膳・西巻監物、鑓下の高名、辻弥兵衛・和田賀助・渡辺三左衛門。右の三人目の三左衛門は山県の被官なり。また三度の競り合いに、鑓は上野豊後・早川弥三左衛門・辻弥兵衛、鑓下の高名は猪子才蔵・広瀬郷左衛門・曲淵庄左衛門。この庄左衛門は前の両度の競り合いに両度ながら人を討ち、少しずつ手を負い候えども、抜きん出たる高名なきとて、三度目に鑓下の高名なり。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『甲陽軍鑑』品第四十八其節辻弥兵衛鑓下の高名して、ひざの口をのぶかに射られ、其矢をぬかずして、とりたるくびを持てきたり大将の山県前にかしこまりゐる、山県大きにいかつてみかたの引とらざる内にもどりたると有儀にて、辻弥兵衛を山県三郎兵衛しかりて塲をおひたつる、其後又味方が原合戦に山県手にて一番鑓はらみ石源右衛門、二番鑓辻弥兵衛と申す此者十七歳の九月初陣より二十九歳の三月までの間に遠州みつけにての物見をそへ以上十度の塲数なり、但し信玄公御證文は三ならでもたず、仔細はみかたが原見付の国府にての儀は信玄公御病気なれば、帰陣有て来春甲府にて下さるべしとて御感状出でざる間、翌年三月の公事なる故によつて御證文三ツならでなし、
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『甲陽軍鑑』品第四十八次の日は山県·松山信玄公御陣所へ帰陣也、さて其後辻弥兵衛富士の大宮神田屋敷において半月の指物をさしたる敵九人出たるを、尾州牢人猪子才蔵と辻弥兵衛と両人にて、敵働らかれぬ細道ゆへか鑓をもちて、ふたきどつゐておしこむ、各味方つゞいて、二木戸ながら破るは悉皆件の才蔵·弥兵衛が大剛强のはたらきゆへ也、中にも弥兵衛は半月指たる者を一人つきふせて討なれば、結句老功の才蔵よりはこしたると云ふ義を信玄公御前にて猪子才蔵がくわしく言上いたし候、
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『甲陽軍鑑』品第四十八ここに甲州東郡にのろと云ふ在所に辻弥兵衛と申て其年二十九歳になる侍山県三郎兵衛が同心なり、此若者、父は辻六郎兵衛とて信玄公の外様近習四十五騎の内なり、武篇は二十八度の塲数有り、大剛の兵にて、信州かいづの小幡山城入道日意が好んでむこにいたす程の武士なれば、甲州において、米倉一党·辻一党両侍の一類に臆病なる者一人も無之、類親広き中に米倉一党に丹後守·辻一党に六郎兵衛是れ両人は一入名を得たる覚への兵なり、
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『甲陽軍鑑』品第四十八又其十日の間に伊豆いたつまにおいて北条家のはが伯耆·笠原両侍大将と信玄家の侍大将山県一手にて合戦の時、頸四百三十甲州方へ討取り、北条家の家老こと〳〵く敗軍なり、其節辻弥兵衛·和田加介鑓をあはする、鑓下の高名川手豊左衛門·長坂宮内左衛門、其八日目に信玄公伊豆韮山へとりつめ、あたりの在郷放火の時、韮山の城のおさへに山県三郎兵衛罷有、城より備へを出してせりあひ有、
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『甲陽軍鑑』品第四十八右の辻六郎兵衛武辺二十八度の塲数にて、御證文十七給はるとあるは首尾不合のやうなれども、惣別武辺十度の塲数には證文下さるゝほどなるは二度相おほくして、三度ならでなき物なれども、此辻弥兵衛がはたらきは十度の内九度は非だちのいらざるつよみなり、さるほどに辻弥兵衛差物はあかねのふきぬき、和田加介は白き練のふきぬきにて山県同心の内にて若手には辻弥兵衛·和田加介両人なり、又長坂宮内左衛門·今福求ノ介是両人も若手の武士なり、
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『甲陽軍鑑』品第四十八御主殿に於て広瀨郷左衛門·みしな肥前両人、一方は又辻弥兵衛左右方の申分あり、先広瀨·みしな申す、公事は何様の者共仕べく候へども、武辺·公事の儀はあひ手によりての儀にて御座候、彼弥兵衛永禄四年川中島合戦初陣にて当年まで十三ヶ年ならで陣は仕候はず候、其上未だ年も二十九歳、武辺の御證文とても二三の儀なり、