甲陽軍鑑 / 品第四十
扨て惡き事あり共類親廣き近付知音のひいき多くある者は惡事を吉事と申なし、さやうのまつりごとにてむほんの儀もかくして惡事出來してから大將の耳へ入る共それは更に所詮なき儀なり、其みなもとは出頭人の親類うかへてまはり、或はよきひきもちたる奉公人共、下の手抦を中にいひ、中の手抦を上に申、又ひいきなきをば中にいひ、中を下にいふ事、ひいき〳〵の取さた故如此、
新字:扨て悪き事あり共類親広き近付知音のひいき多くある者は悪事を吉事と申なし、さやうのまつりごとにてむほんの儀もかくして悪事出来してから大将の耳へ入る共それは更に所詮なき儀なり、其みなもとは出頭人の親類うかへてまはり、或はよきひきもちたる奉公人共、下の手抦を中にいひ、中の手抦を上に申、又ひいきなきをば中にいひ、中を下にいふ事、ひいき〳〵の取さた故如此、
書き下し
扨て悪き事あり共類親広き近付知音のひいき多くある者は悪事を吉事と申なし、さやうのまつりごとにてむほんの儀もかくして悪事出来してから大将の耳へ入る共それは更に所詮なき儀なり、其みなもとは出頭人の親類うかへてまはり、或はよきひきもちたる奉公人共、下の手抦を中にいひ、中の手抦を上に申、又ひいきなきをば中にいひ、中を下にいふ事、ひいき〳〵の取さた故如此、
現代語訳
さて、悪い事があっても、類親が広く近づき知音の贔屓が多くある者は、悪事を吉事と申しなし、さような政にて謀反の儀も隠して、悪事が出来してから大将の耳へ入るとも、それはさらに所詮なき儀である。その源は、出頭人の親類が浮かれて回り、あるいはよい引きを持った奉公人ども、下の手柄を中と言い、中の手柄を上と申し、また贔屓のないのをば中と言い、中を下と言う事。贔屓贔屓の取り沙汰ゆえにこのとおりである。
解説
引きのある者は下の働きが中と評され、中の働きが上と評される。引きのない者は逆に一段ずつ下げられる。同じ働きが二段ずれるので、評価は働きではなく縁で決まる。ついには謀反すら隠され、耳に入った時にはもう遅い。同じ働きが二段ずれるので、評価は働きではなく縁で決まってしまう。ついには謀反すら隠され、耳に入った時にはもう遅いことになる。
この章句が説くこと
贔屓評価手柄縁隠蔽報告
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