甲陽軍鑑 / 品第四十七
以上曲淵少左衞門公事負雜言仕義櫻井殿訴訟之事一甲陽の武田信玄公御一家の板垣信形ざうり取りに、鳥若と申す者を後には曲淵少左衞門と申して、かくれなき武邊のほまれの者なり、彼の者只今四十歳にあまるまで公事を仕る事七十四五度なり、其内一度勝ち一度はあつかひに仕り殘りは皆負け候、
新字:以上曲淵少左衛門公事負雑言仕義桜井殿訴訟之事一甲陽の武田信玄公御一家の板垣信形ざうり取りに、鳥若と申す者を後には曲淵少左衛門と申して、かくれなき武辺のほまれの者なり、彼の者只今四十歳にあまるまで公事を仕る事七十四五度なり、其内一度勝ち一度はあつかひに仕り残りは皆負け候、
書き下し
以上曲淵少左衛門公事負雑言仕義桜井殿訴訟之事一甲陽の武田信玄公御一家の板垣信形ざうり取りに、鳥若と申す者を後には曲淵少左衛門と申して、かくれなき武辺のほまれの者なり、彼の者只今四十歳にあまるまで公事を仕る事七十四五度なり、其内一度勝ち一度はあつかひに仕り残りは皆負け候、
現代語訳
以上。曲淵少左衛門が公事に負け雑言仕る義、桜井殿訴訟の事。一、甲陽の武田信玄公の御一家、板垣信形の草履取りに、鳥若と申す者を後には曲淵少左衛門と申して、隠れなき武辺の誉れの者である。かの者はただ今四十歳にあまるまで、公事を仕る事が七十四五度である。その内、一度勝ち、一度は扱いにいたし、残りは皆負け候。
解説
草履取りから身を起こして武辺の誉れになった男が、生涯に七十四五度も訴訟をして、勝ったのは一度きりだった。強いことと、家中で言い分が通ることは別だという事実が、数だけで示されている。強いことと、家中で言い分が通ることは別だという事実が、数だけで示されている。生涯に七十四五度も訴訟をして、勝ったのは一度きりだったという記録である。
この章句が説くこと
曲淵公事数武辺草履取り通らぬ
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