甲陽軍鑑 / 品第四十八
あるひは十年·十五年にてかわり給ふも御座あれば、多·少とりあわせ二十年づゝにつもり候ても五百四五十年計り甲斐國へ亂入なき故、神社·佛閣·町地下·其外非人までも餘國よりは少々富貴なり、猿·馬·牛の皮はぐ乞食が騎鞍馬にのり、下人をつれれんじやくかうし玉屋といふ酒屋にて代物を出して酒をのむとき、おりふし向山同心·功力左太夫と申侍、又足輕大將の三枝善右衛門寄子小宮山八左衞門と申信玄公御持弓の者と、兩人の侍なにぞ用ありてこそ、これも右の酒屋へまいる、用所おはりて、さかづき出て、暫くさしつさゝれつ盃をめぐらす處に、彼皮剝も侍衆の中へまじり、
新字:あるひは十年·十五年にてかわり給ふも御座あれば、多·少とりあわせ二十年づゝにつもり候ても五百四五十年計り甲斐国へ乱入なき故、神社·仏閣·町地下·其外非人までも余国よりは少々富貴なり、猿·馬·牛の皮はぐ乞食が騎鞍馬にのり、下人をつれれんじやくかうし玉屋といふ酒屋にて代物を出して酒をのむとき、おりふし向山同心·功力左太夫と申侍、又足軽大将の三枝善右衛門寄子小宮山八左衛門と申信玄公御持弓の者と、両人の侍なにぞ用ありてこそ、これも右の酒屋へまいる、用所おはりて、さかづき出て、暫くさしつさゝれつ盃をめぐらす処に、彼皮剝も侍衆の中へまじり、
書き下し
あるひは十年·十五年にてかわり給ふも御座あれば、多·少とりあわせ二十年づゝにつもり候ても五百四五十年計り甲斐国へ乱入なき故、神社·仏閣·町地下·其外非人までも余国よりは少々富貴なり、猿·馬·牛の皮はぐ乞食が騎鞍馬にのり、下人をつれれんじやくかうし玉屋といふ酒屋にて代物を出して酒をのむとき、おりふし向山同心·功力左太夫と申侍、又足軽大将の三枝善右衛門寄子小宮山八左衛門と申信玄公御持弓の者と、両人の侍なにぞ用ありてこそ、これも右の酒屋へまいる、用所おはりて、さかづき出て、暫くさしつさゝれつ盃をめぐらす処に、彼皮剝も侍衆の中へまじり、
現代語訳
あるいは十年・十五年にて代わり給うも御座あれば、多少取り合わせ二十年ずつに積もり候ても、五百四五十年ばかり甲斐国へ乱入なきゆえに、神社・仏閣・町・地下、そのほか非人までも余国よりは少々富貴なり。猿・馬・牛の皮を剥ぐ乞食が騎鞍馬に乗り、下人を連れ、連雀小路の玉屋という酒屋にて代物を出して酒を飲む時、折節、向山同心の功力左太夫と申す侍、また足軽大将の三枝善右衛門の寄子、小宮山八左衛門と申す信玄公御持弓の者と、両人の侍が何ぞ用ありてこそ、これも右の酒屋へ参る。用所が終わりて盃が出て、しばらく差しつ差されつ盃をめぐらす処に、かの皮剥も侍衆の中へ交じり。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『甲陽軍鑑』品第四十八酒すぎて後座を立つ時刻に、功力左太夫仲間が今の皮はぎを見しりて、両人の侍衆へ此者は是皮はぎなりとつぐる、八左衛門·左太夫大ひに腹をたて、宿の玉屋権右衛門に取かゝる、権右衛門は件の皮はぎにかゝる、然れ共小宮山八左衛門·功力左太夫両人ながら武道の心ばせよき者共にて、八左衛門は上州みか尻合戦に鑓わきをよく射て信玄公の御證文一ツ下さるゝ、左太夫も猶以て二ツまて武辺塲数の御證文を信玄公より給はりたる者共なる故、理を持つても町人などを事あらけなくおどす事聊か是れなし、乍併皮はぎこつじき侍の雑富貴なるに任せ如此候へば貴賤·上下のわかりもなく、さながら侍の作法何も悉皆いらざる事なりとて小宮山八左衛門·功力左太夫両人書付をもつて奉行衆へ申す、
-
『甲陽軍鑑』品第四十八則ち御蔵の前にて侍衆訴へ、町人の申分非人の者の云ふ事、公事のさたありて武藤三河守·桜井安芸守·今福浄閑此三奉行の中にても今福浄閑は物毎のよき功者なれば此公事をさたいたさるゝ、先侍衆道理至極に候、又町人も代物かぎりに酒商売の事なり、殊更御分国富貴の故、彼非人までもよろしきなりを仕り候は、是もつて万事逆になく、順義の御仕置ゆへこと〳〵く安堵して、誠につたなき非人まで侍のごとく騎鞍馬にのる、さあれば町人のみそこなふたるも道理なり、扨非人が代物かぎりならば、謙に及ばぬと、
-
『甲陽軍鑑』品第四十八珍重々々甲府浄土宗の僧公事之事一或る年俗と坊主の公事上る、其元を糺して申せば、甲府に三日市塲·八日市塲とて日市の立町あり、両町の内三日市塲に塩屋弾左衛門と云ふ町人候て浄土宗の尊体寺と云ふわき坊主法順と申出家に、右の弾左衛門金子をかり年月をへて彼借金沢山になる、使をやれども弾左衛門少しもなす事なし、法順殊の外ちからの强きあら僧なれば自身三日市塲へゆき弾左衛門が所へ押こみ、とるべき物なきとて其の時十九歳になる下女を法順取て候へは、惣別甲州国習ひにて地下も町人も質をとらるゝ儀を一向の不覚に存ずる事、むかしより作法此通りに候へば、
-
『甲陽軍鑑』品第四十七さるに付て典厩信繁·原美濃守·山本勘介此事始め終り言上也、信玄公きこしめし、寺川·赤口関何れもとしこばい、宿老にて男子道いまだ若きなりと見ゆる侍が、侍にいであふて伐つく事有べきに、さはなくして暫くおし付て罷有は、人にとりさへられたきとある事に相似たり、又押付らるゝ侍も武士が胸へ手をかけられかこると、一度にはや脇ざしをぬきつく所にてはなきか、
-
『甲陽軍鑑』品第十六侍大将より武者奉行大切の心持の事付喧嘩の沙汰之事永禄十一年戊辰歳信玄公御搆への丑寅の方に、毘沙門堂を立て給ふ時、爰に越後牢人布施与三兵衛·同牛の助·虎の介と云ふ兄弟三人の侍と、諏訪弥左衛門と草履取りの口論に付て出入有之、彼者ども少身たりといへども各御用に立つ侍どもなれば、信玄公おしみ給ひ四郎勝頼公を御使になされ、両方堪忍仕るべき旨仰せ出さる、布施兄弟委細畏て御請けをば申せども、さすがに武き大将の弓矢の盛りにて、諸国の諸牢人武士のあつまりなれば、諸傍輩を恥ぢて其三日目についに喧嘩に仕り、
-
『甲陽軍鑑』品第四十八さて信玄公馬塲美濃·山県·内藤·高坂各をめしつれられ、しのびて此公事をきゝ給ひ、辻弥兵衛を大方ならず御感あつて機の逸物なる者かな、才覚もあつて弁舌もあきらかなると云ふは、辻弥兵衛がやうなる事にてこそ有らめ道理かな、父は辻六郎兵衛、はは小幡山城とて我家にて十人となき大剛の兵のむすめなり、明日に広瀨·みしな·小菅死しても、若手に又あのやう成者あれは、あとのあかぬ道理なり、我一代は大身·小身ともに日を追てかやうの武士共の出るは是れたゞごとならず、ひとへに八幡大菩薩のめぐみ給ふ故かとて、則ち八幡宮にて神楽有、其護摩上毘沙門堂にて諸侍のために二十一座のごまあり、扨又其後右四人の者を御つかひにて辻弥兵衛申分一段きこへ候とて、則ち東郡にて十五貫の御加恩あり、