甲陽軍鑑 / 品第四十
第二に駿河先方の中に、朝比奈駿河守是は又忠節人なり、古主今川氏眞公御無分別にて武藤と申すおぼへのなき牢人者の子に、新三郞と云ふ分別なきせがれに戀慕まし〳〵三浦右衛門介になされ、崇敬ある此右衛門殘黨なる佞人故おとな衆をそねみさこへて、いはんや朝比奈兵衞太夫をゆく〳〵なきものにせんとたくみ、惣別仕置あしければ、とても人にとらせむより駿河·遠州をば氏眞公伯父にてまします信玄公へとらせ申さん、其いはれは今川殿もち來り三ケ國の內三河國一國は八年の間に岡崎家康にとられたりと申して、信玄公へ朝比奈兵衛太夫忠節いたす兵衞太夫をかへて後ち駿河守になれば信玄公御意をもつて朝比奈駿河守と名乘る、
新字:第二に駿河先方の中に、朝比奈駿河守是は又忠節人なり、古主今川氏真公御無分別にて武藤と申すおぼへのなき牢人者の子に、新三郎と云ふ分別なきせがれに恋慕まし〳〵三浦右衛門介になされ、崇敬ある此右衛門残党なる佞人故おとな衆をそねみさこへて、いはんや朝比奈兵衛太夫をゆく〳〵なきものにせんとたくみ、惣別仕置あしければ、とても人にとらせむより駿河·遠州をば氏真公伯父にてまします信玄公へとらせ申さん、其いはれは今川殿もち来り三ケ国の内三河国一国は八年の間に岡崎家康にとられたりと申して、信玄公へ朝比奈兵衛太夫忠節いたす兵衛太夫をかへて後ち駿河守になれば信玄公御意をもつて朝比奈駿河守と名乗る、
書き下し
第二に駿河先方の中に、朝比奈駿河守是は又忠節人なり、古主今川氏真公御無分別にて武藤と申すおぼへのなき牢人者の子に、新三郎と云ふ分別なきせがれに恋慕まし〳〵三浦右衛門介になされ、崇敬ある此右衛門残党なる佞人故おとな衆をそねみさこへて、いはんや朝比奈兵衛太夫をゆく〳〵なきものにせんとたくみ、惣別仕置あしければ、とても人にとらせむより駿河·遠州をば氏真公伯父にてまします信玄公へとらせ申さん、其いはれは今川殿もち来り三ケ国の内三河国一国は八年の間に岡崎家康にとられたりと申して、信玄公へ朝比奈兵衛太夫忠節いたす兵衛太夫をかへて後ち駿河守になれば信玄公御意をもつて朝比奈駿河守と名乗る、
現代語訳
第二に駿河先方の中に、朝比奈駿河守。これはまた忠節人である。古主の今川氏真公が御無分別にて、武藤と申す覚えのない牢人者の子、新三郎という分別のない倅に恋慕なされ、三浦右衛門介になされる。崇敬あるこの右衛門は残党である佞人ゆえに、大人衆を嫉み猜えて、いわんや朝比奈兵衛太夫をゆくゆく亡き者にしようと企む。総別、仕置きが悪ければ、どうせ人に取らせるより、駿河・遠州を氏真公の伯父でおられる信玄公へ取らせ申そう。そのいわれは、今川殿が持ち来たった三か国のうち、三河国一国は八年のあいだに岡崎の家康に取られたりと申して、信玄公へ朝比奈兵衛太夫が忠節をいたす。兵衛太夫を替えて後に駿河守になれば、信玄公の御意をもって朝比奈駿河守と名乗る。
解説

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