甲陽軍鑑 / 品第四十
四郞殿十八から當年廿六歲まで九年の間に大方、先つよきはたらき是程なされ候へども、たど强過て今明年の內にうち死なさるべきかと存る、此程御陣ぶれの上は、今から廿日の間に定めて參河·遠州へ御發向ならん、家康と御手ぎれなるにつき、如此陣の時は歸りてこそいきたると存ずれ武士は何もなれと四郞殿をば、入あふなく思ひ候と阿部加賀守語れば山縣三郎兵衞聞て、扨は四郞殿にも强過たるが一ツの瑕にてまします、しかも是は大將の大き成瑕にて、よはきよりは結句おとりなりと山縣三郞兵衞申されて座敷を立なり、
新字:四郎殿十八から当年廿六歳まで九年の間に大方、先つよきはたらき是程なされ候へども、たど强過て今明年の内にうち死なさるべきかと存る、此程御陣ぶれの上は、今から廿日の間に定めて参河·遠州へ御発向ならん、家康と御手ぎれなるにつき、如此陣の時は帰りてこそいきたると存ずれ武士は何もなれと四郎殿をば、入あふなく思ひ候と阿部加賀守語れば山県三郎兵衛聞て、扨は四郎殿にも强過たるが一ツの瑕にてまします、しかも是は大将の大き成瑕にて、よはきよりは結句おとりなりと山県三郎兵衛申されて座敷を立なり、
書き下し
四郎殿十八から当年廿六歳まで九年の間に大方、先つよきはたらき是程なされ候へども、たど强過て今明年の内にうち死なさるべきかと存る、此程御陣ぶれの上は、今から廿日の間に定めて参河·遠州へ御発向ならん、家康と御手ぎれなるにつき、如此陣の時は帰りてこそいきたると存ずれ武士は何もなれと四郎殿をば、入あふなく思ひ候と阿部加賀守語れば山県三郎兵衛聞て、扨は四郎殿にも强過たるが一ツの瑕にてまします、しかも是は大将の大き成瑕にて、よはきよりは結句おとりなりと山県三郎兵衛申されて座敷を立なり、
現代語訳
四郎殿は十八から当年二十六歳まで九年のあいだに、おおかたまず強い働きをこれほどなされましたけれども、ただ強過ぎて今明年のうちに討死なさるだろうかと存ずる。このほど御陣触れの上は、今から二十日のあいだにきっと三河・遠州へ御発向であろう。家康と御手切れであるにつき、このような陣の時は帰ってこそ生きていると存ずる。武士は何でもあれ、四郎殿はひとしお危なく思い候と阿部加賀守が語れば、山県三郎兵衛が聞いて、さては四郎殿にも強過ぎたるのが一つの瑕でおられる。しかもこれは大将の大きな瑕であって、弱いよりは結局は劣りであると山県三郎兵衛が申されて座敷を立つのである。
解説
この章句が説くこと
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