甲陽軍鑑 / 品第三十九
然ば信玄若き時より弓矢を取恐くは當時日本一番にすぐれ候子細は、國持衆弓矢の儀何れもほまれ有と雖ども、皆人は他家の大將をたがひに賴み、兩旗·兩大將をもつて利運に仕侍もあり、或は剛强を專にして、つよきはたらきを用ひて、ほまれ有侍ちあり、或は國を澤山に治め大身なるといへ共、よその手がらをきこては恐怖、末子を人質に出すべきと用意する侍もありときくなり、先北條氏康は太田三樂·上杉則政·輝虎各敵にしてかなはされば、それがし信玄を賴み松山陣其外一兩度我馬を引出し申され候、今河義元も氏康と取合の時、某罷出、富士のしもがたにおいて北條家をしづめ、其後今川義元·北條氏康無事に成は悉皆信玄がすけたる故也、
新字:然ば信玄若き時より弓矢を取恐くは当時日本一番にすぐれ候子細は、国持衆弓矢の儀何れもほまれ有と雖ども、皆人は他家の大将をたがひに頼み、両旗·両大将をもつて利運に仕侍もあり、或は剛强を専にして、つよきはたらきを用ひて、ほまれ有侍ちあり、或は国を沢山に治め大身なるといへ共、よその手がらをきこては恐怖、末子を人質に出すべきと用意する侍もありときくなり、先北条氏康は太田三楽·上杉則政·輝虎各敵にしてかなはされば、それがし信玄を頼み松山陣其外一両度我馬を引出し申され候、今河義元も氏康と取合の時、某罷出、富士のしもがたにおいて北条家をしづめ、其後今川義元·北条氏康無事に成は悉皆信玄がすけたる故也、
書き下し
然ば信玄若き時より弓矢を取恐くは当時日本一番にすぐれ候子細は、国持衆弓矢の儀何れもほまれ有と雖ども、皆人は他家の大将をたがひに頼み、両旗·両大将をもつて利運に仕侍もあり、或は剛强を専にして、つよきはたらきを用ひて、ほまれ有侍ちあり、或は国を沢山に治め大身なるといへ共、よその手がらをきこては恐怖、末子を人質に出すべきと用意する侍もありときくなり、先北条氏康は太田三楽·上杉則政·輝虎各敵にしてかなはされば、それがし信玄を頼み松山陣其外一両度我馬を引出し申され候、今河義元も氏康と取合の時、某罷出、富士のしもがたにおいて北条家をしづめ、其後今川義元·北条氏康無事に成は悉皆信玄がすけたる故也、
現代語訳
それゆえ信玄は、若い時から弓矢を取って、おそらく今の日本で一番すぐれているだろう。その理由はこうである。国持ちの大将たちの弓矢は、いずれも誉れがあるとはいえ、みな他家の大将を互いに頼み、二つの旗、二人の大将をもって勝利を得た侍もある。あるいは剛強を専らにして、強い働きを用いて誉れのある侍もある。あるいは国を多く治めて大身であるといっても、他所の手柄を聞いては恐れ、末子を人質に出そうと用意する侍もあると聞く。まず北条氏康は、太田三楽・上杉憲政・輝虎をそれぞれ敵にして敵わなかったので、この信玄を頼み、松山の陣その他一、二度、我が馬を引き出された。今川義元も氏康と争った時、私が出て富士の下方で北条家を鎮めた。その後、今川義元と北条氏康が和睦したのは、すべて信玄が助けたゆえである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『甲陽軍鑑』品第四十一曽根内匠がいはく、信玄公の御弓箭、信州村上殿五郡持ち給ひても、信濃国甲州より広ければ、武田勢より村上勢大陣なり、其上村上頼平公武勇のほまれ近国にならぶかたなし、殊に越後為景にかち、越後の内をもせめとる大将と信玄公十八歳より数度の合戦ある間に、同く信州大身衆諏訪殿·小笠原殿·木曽殿各同事にて信玄公と戦ひ、就中上杉衆是は猶以て大敵なり、小田原北条殿ひろき国を持ち給へば、是れ以て大敵なり、日本に弓箭の儀、若手の家康と信長申しあはせられ無事にいたし信玄公とあひたこかふ時は是又大敵なり、又輝虎は日本に当代の强将なれ共此大将衆にから給ふ、是によつて信玄公御武勇当代の無双也、
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『甲陽軍鑑』品第三十九扨信長·家康は互にあなたをすけ、こなたをすけ、利運に互に仕り、すでにもつて信長はまきたる城をまきほぐし、味方を捨、退口あらき事数度あり、然も一向坊主などを敵にして、家康なくば成間敷候、本より家康は少身なる若気也、又奥両国にも輝虎ほどなる大将なし、四国·九国にも毛利元就程なるはなし、日本国中に右の大将衆程の誉れの侍、今は大唐にもなきと聞ゆる、然所に信玄手がらは若き時分より他国の大将をたのみ馬を出させ、両旗をもつて弓矢を取たる事一度もなし、まきたる城をまきほぐしたる事一度もなし、味方の城を一ツと敵に取しかれたる事なし、甲州のうちに城墎をかまへ用心する事もなく、屋敷がまへにて罷在、
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『甲陽軍鑑』品第四十信長国へだち信玄輝虎と終に武篇の参会無之、就中唯今は信長の嫡子城之介殿信玄公御婿にとある縁辺なり、さるに付信長手だてなさるべき敵さのみなし、十二年以前今川義元公と合戦の刻、信長二十七歳にて無類の手抦是なり、其比信長少身にて若ければ、大敵には種々謀ごとありて信長勝利を得給ふなり、謀行の軍法なき弓矢は縦へば下手のあつまりてする能見物のごとし、仕そこなはんと思ひ、見ながらあぶなく候、信長の弓矢も美濃の国と七年の間取合て武功の分別定まるなり、
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『甲陽軍鑑』品第四十曽根内匠又問ふ、信玄公と元就と武勇いづれ多少ぞといへば、内藤修理答へていはく、元就公の武勇信玄公よりちとうへなり、子細はもとが甲州一国ほどももたぬ元就にて、其上国数多き敵の故如此、但し信玄公の御弓箭は軍法の儀古今まれなり、是を以てさたせば末代によき大将衆信玄公をほめ奉らんと内藤修理、曽根·真田·三枝三人の若者に申しをしゆるなり、
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『甲陽軍鑑』品第四十信玄公の弓矢は、むらかみ殿と取合にて武功の分別をさためらるゝ、村上殿信州のうち四郡、越後一郡ほど合五郡なれ共、広き国なる故甲州一ケ国半程の位なり、其上强敵にて候、
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『甲陽軍鑑』品第三十九其子細は縦へをとるに矢勢盛には射ぬく者也、矢勢過る時分には浅く立、矢勢過ては己と落る、其ごとく人の果報も久しく無之候、果報の過時分をまたずして盛に取合を始め、天道よりおしおとさるゝ也、信玄が信長·家康と武篇対々ならば、是程早く命は縮るまじけれ共、弓矢には信長·家康両人懸りても信玄には更になり難き故、天道果報をひきし給へば、天より信玄をころし給ふ、其印には輝虎三年の間に病死仕るべく候、