甲陽軍鑑 / 品第四十
北條氏政は父氏康公元龜元年午十月他界有りて、やがて氏政公數通の起請にて信玄公へ侘言被成旣に旗下にとある事なれども、對々の國がさにて結句氏政もち、大國なる故人數は一倍あれ共、武功の恐れにてかくの如し、去る程に三河家康も信長はたしたなり、三河國を信長取りて家康にくるれば被官なり、我辛勞して一國の主になる、
新字:北条氏政は父氏康公元亀元年午十月他界有りて、やがて氏政公数通の起請にて信玄公へ侘言被成旣に旗下にとある事なれども、対々の国がさにて結句氏政もち、大国なる故人数は一倍あれ共、武功の恐れにてかくの如し、去る程に三河家康も信長はたしたなり、三河国を信長取りて家康にくるれば被官なり、我辛労して一国の主になる、
書き下し
北条氏政は父氏康公元亀元年午十月他界有りて、やがて氏政公数通の起請にて信玄公へ侘言被成旣に旗下にとある事なれども、対々の国がさにて結句氏政もち、大国なる故人数は一倍あれ共、武功の恐れにてかくの如し、去る程に三河家康も信長はたしたなり、三河国を信長取りて家康にくるれば被官なり、我辛労して一国の主になる、
現代語訳
北条氏政は、父の氏康公が元亀元年午の十月に他界され、やがて氏政公が数通の起請にて信玄公へ詫び言をなされ、すでに旗下にとある事であるけれども、対々の国嵩であって、結局は氏政が持ち、大国であるゆえに人数は一倍あるけれども、武功の恐れによってこのとおりである。さるほどに、三河の家康も信長の旗下である。三河国を信長が取って家康にくれれば被官である。我が辛労して一国の主になる。
解説
起請を何通も入れて詫びてきても、国の大きさが釣り合っている以上は旗下とは呼ばない。相手のほうが人数は倍あるのに頭を下げてくるのは、武功を恐れているからだと見る。同じ低姿勢でも、力関係のどこから出ているかで扱いが変わる。同じ低姿勢でも、力関係のどこから出ているかで扱いが変わる。人数は倍あるのに頭を下げてくるのは、武功を恐れているからだと見ている。
この章句が説くこと
北条氏政旗下対々起請武功家康
関連する章句
-
『甲陽軍鑑』品第四十信長尾張一国ならば互に尾張·三河にてみかたとばかり申すべく候へ共、信長国数をとり大身に成に付、家康は一国にて無事なれば、一国の方をはたしたと云ふ、かやうの事も生れ替りの家にてはわかき衆其たてわけをしらねば、武士道無案内のやうに候と小宮山内膳·小山田彥三郎両人に、もろが入道がゝへたるを高坂弾正聞き候て、くどけれども紙面にあらはし、わかき衆にせんさくよくなされよとの儀なり、
-
『甲陽軍鑑』品第四十是れは小身なる侍の事、大身の上には一のおほへ大合戦こぜりあひ、二のおぼへ城せめ、第一には人をよく見知、国の仕置見る事になさるゝ事、是は又国半国とも、もつ大将の御手抦是なり、然る間右の家康は十二年以前に十九歳にて尾州大高の覚へ、三河国一の宮の後詰、同かんだいじの合戦、吉良にての合戦、山中の平ぜめ信長すけ、江州あね川合戦偏へに家康武功故信長の勝利と云ふ、同若狭の国にて信長にすてられたる時の家康はたらき、遠州懸川にて今川氏真をせめて氏真に降参させ申事、其外三河国において七年に大方七度の合戦有りと聞く、
-
『甲陽軍鑑』品第四十家康いま信長と二世迄の入魂につき両方加勢をすけあひ、それ故ふたりけんごなれ共、信長敵は上方十四ヶ国の間にて信長に国とられぬをもとにして、信長国へとりかけんと存ずる武士一人もなき故かくのごとく次第に大身なる、家康はいつまでも三河一国、遠州三ケ一ならば終には家康·信長被官のやうになりて後祝言は申しつ、信玄公の明日にも目をふさぎ給はゝ信長安堵して、今こそ嫡子の城介殿と同意に思ふとて、三ツの桃を一ツ送る共、强敵·大敵の六ケ敷信玄公御座なくば家康を信長ころし候はん、それに大事なくば家康果報の儀、少々のかんがへには成りかね申さんと高坂がいへば、馬塲美濃大誓文をたて我等もそれなりと云ふ、内藤修理も同誓文にて右の通りなり一或時小笠原慶安斎へ宿老衆振舞によりあふて、
-
『甲陽軍鑑』品第四十四年以前に他界まします信玄、今迄御在世に付ては天下の仕置なさるゝ事なにうたがひあらんや、子細は伊勢·越前·河内·和泉·四国其外紀伊国·大和国小身なる者共まで信玄公へ申通し、法性院殿都入を相待とある事なり、さありて三河の家康をさへおしつぶせば、信長大身にてもそれはあまり手間とらぬ事、
-
『甲陽軍鑑』品第四十第二に駿河先方の中に、朝比奈駿河守是は又忠節人なり、古主今川氏真公御無分別にて武藤と申すおぼへのなき牢人者の子に、新三郎と云ふ分別なきせがれに恋慕まし〳〵三浦右衛門介になされ、崇敬ある此右衛門残党なる佞人故おとな衆をそねみさこへて、いはんや朝比奈兵衛太夫をゆく〳〵なきものにせんとたくみ、惣別仕置あしければ、とても人にとらせむより駿河·遠州をば氏真公伯父にてまします信玄公へとらせ申さん、其いはれは今川殿もち来り三ケ国の内三河国一国は八年の間に岡崎家康にとられたりと申して、信玄公へ朝比奈兵衛太夫忠節いたす兵衛太夫をかへて後ち駿河守になれば信玄公御意をもつて朝比奈駿河守と名乗る、
-
『甲陽軍鑑』品第六氏実公政道よくましまさば家康公の表裡にても有べし氏実公あしき大将にてもあれ家康公今川殿に伝る家老ならはこそ人のいふも尤なれ、家康公はもとより一城の主たり、時のけんにまかせて属したる大名と申物也、時のけんによつて属したる人は万事を抛て時を見あはせ我立身を専にする物なれは、家康公今川殿の家老にてはなし努々表裡に有べからず、