甲陽軍鑑 / 品第四十
縱ば一文不通の者なりとも、此理に徹したる人は、信玄は智者といひて馳走に存ずる也、但しよそにて物識人の上には何程も能せんさく有共、其所へは信玄及ばずして少智·短才の法性院如此と宣ふ也一或る時信玄公御はなし衆に尋給ふ、
新字:縦ば一文不通の者なりとも、此理に徹したる人は、信玄は智者といひて馳走に存ずる也、但しよそにて物識人の上には何程も能せんさく有共、其所へは信玄及ばずして少智·短才の法性院如此と宣ふ也一或る時信玄公御はなし衆に尋給ふ、
書き下し
縦ば一文不通の者なりとも、此理に徹したる人は、信玄は智者といひて馳走に存ずる也、但しよそにて物識人の上には何程も能せんさく有共、其所へは信玄及ばずして少智·短才の法性院如此と宣ふ也一或る時信玄公御はなし衆に尋給ふ、
現代語訳
たとえ一文不通の者であっても、この理に徹した人は、信玄は智者と言って大事に存ずるのである。ただし他所で物を知る人の上には、いくらでもよい詮索があろうけれども、その所へは信玄は及ばず、少智・短才の法性院はこのとおりであると宣われたのである。ある時、信玄公が御咄衆に尋ねられた。
解説
字が読めなくても道理に徹していれば智者だ、と言い切る。そのうえで、学問の世界にはもっと深い詮索があるだろうがそこには自分は及ばない、少智短才の法性院である、と自ら名乗る。前段の学の定義と対にして、自分の限界も同じ言葉で示している。前段の学の定義と対にして、自分の限界も同じ言葉で示している。道理に徹していれば智者だと言い切った当人が、自分は少智短才だと名乗る。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
智者一文不通理学謙信玄
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『都鄙問答』卷之二・或學者、商人ノ學問ヲ譏ノ段曰く、汝は理を直ちに命と云ふ、是大いに誤れり。理は玉の理なり。又総て物の理なれば、通るまでのことにて死物なり。命は、書経にも、惟れ命は常に于てせずと云へり。天の降せる命なれば、活物の性なり。斯くのごとく別なり。然るを、死活を以て一致とするは如何なることぞ。
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『童子問』卷中問ふ、理の字何の故に生生化化の原と為すに足らざるか。曰く、理は本死字なり。物に在りて物を宰すること能はず。生物に在りては生物の理有り、死物には死物の理有り。人には則ち人の理有り、物には則ち物の理有り。然れども一元の気之が本と為りて、理は則ち気の後に在り。故に理は以て万化の枢紐と為すに足らざるなり。万物は五行に本づき、五行は陰陽に本づく。再び推して陰陽の然る所以に至れば、則ち之を理に帰せざること能はず。既に理に帰すれば、則ち自ら虚無に陥らざること能はず。所謂万法一に帰す、一何れの所にか帰す、是れなり。此れ常識の必ず此に至る所以にして、聖人と自ら相違ふなり。惟だ聖人のみ能く天地の一大活物にして、理の字を以て之を尽くすべからざることを識る。故に彖に之を賛して曰く、大いなるかな乾元、至れるかな坤元と。至れり尽くせり。若し天地の真に活物なることを知らば、汝に許す、即身即ち伏犠なることを。
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『学則』答屈景山書宋儒の伝注は、唯理を其の心に求めて以て之を言ふ。夫れ理なる者は定準無き者なり。聖人の心は得て測るべからず。唯聖のみ聖を識る。宋儒の為す所、豈に倨らざらんや。不佞は則ち敢へてせず。夫れ道は則ち高し美し。譾劣の資は企て及ぶべからず。故に卑卑焉として諸を事と辞とに求む。其の心に謂へらく、儒者の業は、唯古の聖人の書を守りて以て後世に詔ぐ、其れ斯れ可なりと。後賢の説は高妙なりと雖も、其の事辞に於いて合はざる有り。何を以て其の聖人の心と道とに於いて必ず合ふを知らんや。君子は其の知らざる所に於いて、蓋し闕如たり。且つ聖人の教へは天下に被る。天下の人、愚と不肖と亦た夥しいかな。故に卑卑焉たる者も、何ぞ必ずしも聖人の指に盭らんや。是れ不佞の心なり。
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『慎思録』巻之二大学或問に曰く、天下の物は、必ず各々其の然る所以の故と、其の当に然るべき所の則と有り。所謂理なり、と。愚謂ふ、当に然るべき所の者は、理の見易き者なり。所謂粗なり。然る所以の者は、理の見難き者なり。所謂精なり。夫れ理は一なり。其の表裏精粗有るを以て、二者の別有り。
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『弁名』理氣人欲夫れ理は事物皆之れ有り。故に理は繊細なる者なり。宋儒の意、其の細を合すれば以て其の大を成すべしと謂ふ。豈に其れ然らんや。銖銖にして之を求むれば、鈞に至りて差ふ。寸寸にして之を求むれば、丈に至りて差ふ。何となれば、凡人の見る所は小にして、聖人の見る所は大なり。見る所大なれば、則ち小なる者遺れず。聖人の及ぶべからざる所以なり。人苟も聖人の教に循ひて其の大なる者を得れば、則ち小なる者自ら失はず。其れ或いは之を失ふと雖も、亦た大害無し。何となれば、其の大なる者を失はざるが故なり。大なる者は何ぞ。礼と義と是れなり。聖人の極を立つる所なり。宋儒の理を尚ぶ、其の究は聖人を師とせずして自ら用ふるに帰す。是れ其の失する所以なり。
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『慎思録』巻之四朱子曰く、天下の物は、必ず各其の然る所以の故と、其の当に然るべき所の則と有り。所謂理なり、と。愚謂へらく、二者は姑く事親の一事を以て之を言はん。我の父母に於けるや、資始資生の恩有りて、天地と斉し。且つ其の幼より長に至るまで、鞠育教誨の愛も亦た至れり。昊天罔極と謂ふべし。是れ父母に孝なる所以然の故なり。父母に事ふるの道、当に其の功を用ふべき者は、愛敬を致して其の力を竭くすに在り。且つ志を養ひ口体を養ふことを加へ、温凊定省、皆闕くべからざる所なり。是れ所当然の則なり。故と則と皆是れ理なり。然れども別ちて之を言へば、所以然の故なる者は理なり、所当然の則なる者は義なり。