甲陽軍鑑 / 品第四十八
辻彌兵衛申すは、尤もかた〳〵の塲數は、いんげんに及ばぬ人の存知たる儀なり、さりながら我等罷出ぬ以前は、それがし親の辻六郞兵衞と申者、各も少しは御存知あらん、六郞兵衞も武邊塲數の御證文十七迄戴き候て外樣近習の內に人をこせ共終に人にこされず、度々の手疵をかうふり、あら勝負を仕り、殊に十三年以前に信州わりが嶽にて、當家にかくれなき覺の名人なれば近國·他國まで名高き原美濃殿に立合、則ち其塲にて討死いたす其はたらきは原入道信玄公へ直札申上られ候、其かくれ有まじ、
新字:辻弥兵衛申すは、尤もかた〳〵の塲数は、いんげんに及ばぬ人の存知たる儀なり、さりながら我等罷出ぬ以前は、それがし親の辻六郎兵衛と申者、各も少しは御存知あらん、六郎兵衛も武辺塲数の御證文十七迄戴き候て外様近習の内に人をこせ共終に人にこされず、度々の手疵をかうふり、あら勝負を仕り、殊に十三年以前に信州わりが嶽にて、当家にかくれなき覚の名人なれば近国·他国まで名高き原美濃殿に立合、則ち其塲にて討死いたす其はたらきは原入道信玄公へ直札申上られ候、其かくれ有まじ、
書き下し
辻弥兵衛申すは、尤もかた〳〵の塲数は、いんげんに及ばぬ人の存知たる儀なり、さりながら我等罷出ぬ以前は、それがし親の辻六郎兵衛と申者、各も少しは御存知あらん、六郎兵衛も武辺塲数の御證文十七迄戴き候て外様近習の内に人をこせ共終に人にこされず、度々の手疵をかうふり、あら勝負を仕り、殊に十三年以前に信州わりが嶽にて、当家にかくれなき覚の名人なれば近国·他国まで名高き原美濃殿に立合、則ち其塲にて討死いたす其はたらきは原入道信玄公へ直札申上られ候、其かくれ有まじ、
現代語訳
辻弥兵衛が申すは、もっとも方々の場数は、異見に及ばぬ、人の存知たる儀なり。さりながら、我らが罷り出ぬ以前は、それがしの親の辻六郎兵衛と申す者を、方々も少しは御存知あらん。六郎兵衛も武辺場数の御証文を十七まで戴き候て、外様近習の内に人を越せども、ついに人に越されず。度々の手疵を被り、荒勝負を仕り、ことに十三年以前に信州の割ヶ嶽にて、当家に隠れなき覚えの名人であれば近国・他国まで名高き原美濃殿に立ち合い、すなわちその場にて討死いたす。その働きは原入道が信玄公へ直札に申し上げられ候。その隠れあるまじ。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『甲陽軍鑑』品第四十八ここに甲州東郡にのろと云ふ在所に辻弥兵衛と申て其年二十九歳になる侍山県三郎兵衛が同心なり、此若者、父は辻六郎兵衛とて信玄公の外様近習四十五騎の内なり、武篇は二十八度の塲数有り、大剛の兵にて、信州かいづの小幡山城入道日意が好んでむこにいたす程の武士なれば、甲州において、米倉一党·辻一党両侍の一類に臆病なる者一人も無之、類親広き中に米倉一党に丹後守·辻一党に六郎兵衛是れ両人は一入名を得たる覚への兵なり、
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『甲陽軍鑑』品第四十八其節辻弥兵衛鑓下の高名して、ひざの口をのぶかに射られ、其矢をぬかずして、とりたるくびを持てきたり大将の山県前にかしこまりゐる、山県大きにいかつてみかたの引とらざる内にもどりたると有儀にて、辻弥兵衛を山県三郎兵衛しかりて塲をおひたつる、其後又味方が原合戦に山県手にて一番鑓はらみ石源右衛門、二番鑓辻弥兵衛と申す此者十七歳の九月初陣より二十九歳の三月までの間に遠州みつけにての物見をそへ以上十度の塲数なり、但し信玄公御證文は三ならでもたず、仔細はみかたが原見付の国府にての儀は信玄公御病気なれば、帰陣有て来春甲府にて下さるべしとて御感状出でざる間、翌年三月の公事なる故によつて御證文三ツならでなし、
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『甲陽軍鑑』品第四十八右の辻六郎兵衛武辺二十八度の塲数にて、御證文十七給はるとあるは首尾不合のやうなれども、惣別武辺十度の塲数には證文下さるゝほどなるは二度相おほくして、三度ならでなき物なれども、此辻弥兵衛がはたらきは十度の内九度は非だちのいらざるつよみなり、さるほどに辻弥兵衛差物はあかねのふきぬき、和田加介は白き練のふきぬきにて山県同心の内にて若手には辻弥兵衛·和田加介両人なり、又長坂宮内左衛門·今福求ノ介是両人も若手の武士なり、
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『甲陽軍鑑』品第四十八さて信玄公馬塲美濃·山県·内藤·高坂各をめしつれられ、しのびて此公事をきゝ給ひ、辻弥兵衛を大方ならず御感あつて機の逸物なる者かな、才覚もあつて弁舌もあきらかなると云ふは、辻弥兵衛がやうなる事にてこそ有らめ道理かな、父は辻六郎兵衛、はは小幡山城とて我家にて十人となき大剛の兵のむすめなり、明日に広瀨·みしな·小菅死しても、若手に又あのやう成者あれは、あとのあかぬ道理なり、我一代は大身·小身ともに日を追てかやうの武士共の出るは是れたゞごとならず、ひとへに八幡大菩薩のめぐみ給ふ故かとて、則ち八幡宮にて神楽有、其護摩上毘沙門堂にて諸侍のために二十一座のごまあり、扨又其後右四人の者を御つかひにて辻弥兵衛申分一段きこへ候とて、則ち東郡にて十五貫の御加恩あり、
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『甲陽軍鑑』品第四十八次の日は山県·松山信玄公御陣所へ帰陣也、さて其後辻弥兵衛富士の大宮神田屋敷において半月の指物をさしたる敵九人出たるを、尾州牢人猪子才蔵と辻弥兵衛と両人にて、敵働らかれぬ細道ゆへか鑓をもちて、ふたきどつゐておしこむ、各味方つゞいて、二木戸ながら破るは悉皆件の才蔵·弥兵衛が大剛强のはたらきゆへ也、中にも弥兵衛は半月指たる者を一人つきふせて討なれば、結句老功の才蔵よりはこしたると云ふ義を信玄公御前にて猪子才蔵がくわしく言上いたし候、
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『甲陽軍鑑』品第四十八ほどに、かの六郎兵衛永禄四年辛酉に、信州わりが獄の城を信玄公乗取給ふ時、彼六郎兵衛其年四十五歳にて原美濃守·加藤駿河守一所にて無類の働きを仕り、討死をいたすが信玄公殊の外惜み給ふて、六郎兵衛が二十五貫の知行を子共三人に分けて下さるゝ、十二貫は一男·八貫次男·五貫三男、扨て二ツになる男は父が内々出家と申置候とて、妙音寺と申法花坊主に契約也、扨又六郎兵衛が一男は此弥兵衛なり、是を親のごとくに外様近習に罷成申べしと信玄公仰出さるゝ、